東京人の知らぬこと
東京に生まれた女で、40歳にもなって浅草の観音様を知らないというヒトがいる。
嵐雪の句に
五十にて四谷を見たり花の春
というのがあるから、嵐雪も五十ではじめて四谷を見たのかもしれない。
これも40くらいになる東京の女だが、私がタケノコの話をしたら彼女はたいそう驚いて、「タケノコが竹になるのですか」と不思議そうに言っていた。彼女は「竹」も「タケノコ」も知っていたのだけれど、この二つが同じものだという事を知らなかったのである。
しかし、この女みたいなのがたまたま物を知らなかっただけで、特別な例だと思う者も多いであろうが、決してそういうわけではない。私が漱石とともに高等中学に居た頃、漱石の家を訪れた。漱石は牛込の喜久井町に住んでおり、田んぼからは1丁か2丁くらいしか離れていないところである。漱石は子供の時からそこで育ったのであった。
私は漱石と二人で田んぼを散歩して、早稲田から関口の方へ行ったのが、だいたい6月頃であったろう、そこらの水田に植えられたばかりの苗がそよいでいるのは、実にいい心持であった。このとき私が驚いたのは、漱石は我々がいつも食べている米は、この苗の実であることを知らなかったということだ。都住まいが菽麦を弁ぜざる(=豆と麦の違いすら分からない愚か者、という故事成語)ってこはまさにこういう事である。
もしも都会人が一人前の立派な人間になりたいとしたら、やっぱりどうしても一度は田舎住まいをしなければならない。
(1901/05/30)