「や」でも「も」でも...
このごろ碧梧桐の俳句が、一種の新調をなした。俳句の中に「も」の字を多用するのだ。
たとえば
桐の木に鳴く鶯
といったものである。そのことに対する批評はさておいて、碧梧桐のオリジナリティを持つことと言ったら、さすが碧梧桐らしいといおうか、私はこういった句を、好きかどうかは関係なく排斥しようなどとは思わない。
なのだが、俳人の中には新しい物好きで流行には少しでも遅れたくない、といった連中がいて、早くもこの「も」に飛びついてパクろうとするその敏捷さと軽薄さには、実に驚くばかりである。
この前、ある人がはがきをよこしていうには、
「前日投書した句で、
いちご売る世辞よき美女や峠茶屋
とあるのは、「美女
とあり、コイツは碧梧桐のパクリだと思った。碧梧桐の専売特許みたいなものを、いち早くマネして世間にどーだとばかりに見せつけるのは、不徳義というか不見識というか。ましてや、その句が一つも面白くない、平々凡々で、「も」の一文字によって何がどうなるわけでもなく、一切評価が上がらないものである。
「一字といえどもおろそかにはできない」ってのは老練した俳人が言えるセリフで、 まだ右も左もわかっとらん初心者なんかが言うと、クソ生意気で片腹痛いってなもんだ。
一文字の助字の「や」と「も」とがどっちだったとしても、句の評価がほんの少しでも変わることはない。そんな出過ぎたことを考えるよりも、まず大体の趣向に力を入れるべきだ。で、大体の趣向ができたら、その次は句作をするうえで前後関係が妙なことにならんように言葉の並べ方、つまり順序に注意するべし。
こうして大体の句作ができたら、その次は肝心な動詞、形容詞といったものがこの句にとっていい具合に機能するかどうかを考えてみるべし。
これだけ念には念を入れて考えれば、「てにをは」のような助字はその間に自然と決まってくる。
デタラメな趣向、デタラメな句作にとりあえず「も」を入れてモノメカシイ感じに仕立て上げようとするイヤミ加減は、もうちょっと控えてもらいたいものだ。
(1901/06/02)
子規先生、碧梧桐のことを評価してるんだか何なんだか。一応一番弟子ってな感じですけど、だからこそ厳しめの評価なのか、あるいはキャラがチャラいのが気に入らんのか。
それはそうと、この「も」の使い方に関しては、あまり好きじゃなかったみたいです。