Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

夜半亭を継ぐもの

大阪の雑誌『宝船』第1号に、蘆陰舎百堂ろいんしゃひゃくどうなるものが三世夜半亭を継いだ、と説明してその証拠に「平安夜半へいあんやはん翁三世浪花蘆陰舎なにわろいんしゃ」と書かれた本人の書を挙げていた。

 だけども、これはトンデモない間違いである。「夜半翁三世」というのは「蕪村から3代目」という意味で、「3代目夜半亭」ということではない。もしも「三世夜半亭」という意味ならば、わざわざ重ねて「蘆陰舎」という舎号を書くはずもなかろう。  

 おそらくこの人は、大魯たいろの門弟であり、蕪村の又弟子にあたるのだろう。

  

(1901/03/23)

 

 


 

 さて、いろんな知らん人名が出てきまして、訳が分からん状態です。ちょっと調べてみたので、整理します。

 

 まず、子規先生がリスペクトする与謝蕪村という俳人がいます。この人は、江戸時代の俳諧の流派であった「夜半亭」の2代目です。ちなみに初代の夜半亭は早野巴人はやのはじんという人で、「夜半亭宋阿そうあと名乗っていました。

 蕪村の弟子に高井几董たかいきとうというヒトがいて、これが蕪村の死後、夜半亭を継承して3代目となりました。

 

 では、一方で「蘆陰舎」とはナンだ、というと、こっちは吉分大魯よしわけたいろという俳人の別の号で、この「蘆陰舎」という号は後に、弟子である田辺百堂たなべひゃくどうに継承されました。

 で、「初代蘆陰舎」である大魯は、「2代目夜半亭」の蕪村のお弟子さんでもあります。

 

 整理しますと、「3代目夜半亭」は高井几董。蕪村(=平安夜半翁)の弟子の弟子が田辺(蘆陰舎)百堂。

 

 ややこしいなあ。調べて整理するの大変でした。で、何がわかったかというと、子規先生が本文に書いていたのと同じように、百堂という人物は「大魯の門弟であり、蕪村の又弟子にあたる」ということ。なんじゃそりゃ。

  

 

新部良仁