ボクジューの染みゆくままに
2023年の1月16日から、約半年にわたってお送りいたしました、「Nobo-Sanのボクジュー一滴」、いかがでしたでしょうか。ある種の「モキュメンタリー」的な感じで、明治の一人物の日常を追っかける、といった意気込みで始めたんですが、結局そんなに立派なものにならず、現代とも変わらない「オッサンの愚痴ブログ」みたいになってしまいました。
子規先生って、けっこうエラソーな事を言う割には、すぐに尻尾巻いて逃げたりしますよね。厳密さを求めるかと思えばチャカしたり、毒舌とユーモアと、皮肉と理想論とが入り混じった、なんだかよくわからんけど、オモロイおっさん(34歳で死んでるけど)だったことがお分かりになると思います。
なによりも、教科書に載ってる、多分たいそうエラいヒトってのが、実は案外フツーのヒトである一面を持っている、ってのが安心感ありません?
あと、やっぱり若いときはハメ外すもんでしょ。
閑話休題、このブログを書いてるときに一番怒りを覚えたのは、子規先生が漢字に目覚めちゃった時。
その時の記事にも書いたけど、ハッキリ言ってクソどーでもいい様な編や旁の違いとか、そもそもそんな旧字はもう使っとらん、っていうような時とか、それでいて、散々苦労してUnicodeから拾ってきたり、あるいは存在しないので画像データでもって作ったりしたその入魂の一文字が、後の「読者からの指摘」によって無残にも無意味の長物となった時。
「あのよー、エラソーな事言うんならよー、もうちょっとちゃんと調べてから言えよな」と胸倉つかんでやりたくなっちゃう。ソレでも彼は言うでしょう。
「…ただ、私が余りに些細な事を『マチガイだ』と祭り上げたために、こんな攻撃を受けたのであれば、ごめんなさい、全部取り消します」(3月17日付『漢字の話はもうしない』より)
ちなみに原文だと、「...ただ余が先に余り些細なる事を誤謬といひし故にこの攻撃も出で来しなればそれらは取り消すべし」となります。
――あまり変わらんがな。
それにしても、ほとんど原文をなぞっただけとは言え、よく考えたら本1冊分の文章をここに書いたわけだから、我ながらアホクサい仕事をしたもんです。でも、コレの原文って、「青空文庫」サンで読めるわけだし、本当に面白いのはどっちかって言うと、やっぱり原文の方だったりするんですよね。
さて、ここからは未定の事柄なので、実現しなかったらそーゆーモノだとして欲しいのですが、いちおう次回作の予定は立てております。
なんだか予想がつく気がするのですが、子規先生の遺作となった随筆の、『病床六尺』を、同じノリでやってみようかな、と計画しております。あるいはもっとライトなノリで。
その名も、『Nobo-Sanのビョーショー六尺』。全128回の予定。今回の『ボクジュー一滴』が164回だそうだから、1月チョイ短い計算です。
ただ、そのスタートが、「5月5日」なんですよね...。
つまり、まだあと10ヶ月以上ある。
そのころに、私の暮らしがどうなっているのかわからないので、保証はできかねますが、何とか書き上げるつもりです。
それでは皆様、次回は2024年の5月5日にお会いしましょう。
じゃなかった、1902年の5月5日にお会いしましょう!
夏のスシ
スシの俳句を作るヤツのなかには、それが何を意味するかも知らんのに「
昔の寿司は「
それは、アユを飯の中に入れて酢を入れたものをオケに入れて、重しを置く。で、1,2日あるいは長くて7日ほども置いておいて、やっと食べるものであり、こうして出来上がることを「なる」と言う。今でも場所によってはこういった風習が残っている。
「
これらは一晩圧しておけば「なる」ので、「一夜鮓」ともいえよう。
東海道を行く人は山北で鮎の鮓を売っていることを知っているだろう。これらこそ、夏の季語に属するべきものである。今の普通の握り寿司やちらし寿司なんてのは、本来的には邪道なんである。
(1901/07/02)
最終回なんである。
いきなりですが、これにて「ボクジュー一滴」は最後の記事となります。
このブログのまとめは、後日に公開する「編集後記」的な記事に書くとして、今回のちょっとした解説。
今の握り寿司の原型である「押し寿司」というものはご存じの方も多いでしょう。「サバの押し寿司」なんて、スーパーなんかでも売ってますよね。木枠にご飯(酢飯)を詰めて、そこに具材となる「ネタ」を置いて、上から落し蓋のようなものに重りをのせて、しばらく置いておく。
コレの更に原型に、「なれずし」というものがあって、漢字だと「馴れ鮓」あるいは「熟れ鮓」と書きます。こいつはさらに強烈で、魚(だけに限らず、肉や野菜もあったけど)を塩漬けにして、ソイツをご飯に混ぜ、オヒツに重しを載せて乳酸発酵させたもの。キョーレツな匂いが特徴。もともとは糠漬けのように、発酵した米を洗ってから食べるものだったそうな。
今回子規先生が言っているのはこの「なれずし」が、もうちょっと文明的になったもののことでしょう。単純に保存食として作っていたものから、料理として成立した、完成したもの。
今のスシはそれと対比して学術的に「早寿司」なんて言われとるそうですが、それはもうクソどうでもいいことで、もともと発酵食品であった「鮓」が、ライトになったのが当時の「なれずし」とか「押し寿司」なんだな、というイメージでいいんじゃないかなあ。
っていうか、文脈から当時の「寿司」は今のスシとあまり変わらんと思う。赤酢を使う店がちょっと多かったくらいか。
中村不折を送る
陸羯南氏が主催で、私の枕頭にメインゲストの中村不折をはじめとして、鳴雪、(桂)
虚子が最後に残って、「船弁慶」を一番謡って帰った。
(1901/06/30)
実は、ここに登場する「滝氏」なる人物がだれなのか、ずいぶんと頭を悩ませました。結局確実なことが言えないので、本文にはカッコによる補足を入れませんでした。
最初に思い付いたのは、たぶん結核で夭逝した、という連想からでしょうか「瀧廉太郎」でした。
なんだけど、子規先生とのつながり、と考えたら、なんだか納得いきません。しかも、明治期に書かれた文章だったら、「瀧」の字を使うはずです。同じ理由で、その従兄弟にあたる建築家の「滝大吉」も却下。時代的には良いセン行ってるんだけど。
天保3(1832)年に生まれて明治34(1901)年の9月末に亡くなった、「滝
――コイツなのか?
でも、そうだったとしたら、集まったメンツの中で年齢層が高すぎないか?
子規先生が当時34歳です。その師匠的な陸羯南が44歳。これはまだいい。高浜虚子が27歳です。内藤鳴雪が54歳でダブルスコア。桂湖村が33歳、鈴木豹軒23歳、5代目浜村六蔵35歳。
こういったメンバーで、果たして69歳のレジェンドジジイがやってきて、マトモな会になるのか? 鳴雪だってなんか居心地悪そう。っていうか、以前「ある人の手紙」とやらで「若く見える」ってな意味で「還暦には今一ト昔もありさう」って書かれてたけど、実際まだ6年もあるわけだから、ソレって褒めてねえじゃん。
――話がそれてしまった。
確かに滝和亭がきたらテンション爆上がりでしょう。でも、この人は3か月後に死にます。たぶんこの時点でもう限界です。っていうか臨界です。
じゃあ誰だ? そうなってくると、和亭爺さんの息子の滝精一さんが、俄然この場にふさわしいように思えます。彼はこの当時で28歳。ちょうどいい。しかものちに帝大で美術史の教授になっちゃう人。さらに、この会合の直後くらいに美術雑誌の『国華』を主宰します。
だもんで、今回の「滝氏」は「滝精一」で間違いないと思うんですが、どーでしょう。
――本文よりも長くなってもうた。
中村不折に贈る⑤
不折君と為山氏はおなじ小山門下で、互いに知り合いであるが、いずれも一家の見識を備え、立派な腕を持っているので、好敵手といったところだろう。
たとえこの二人が競争しようとしているわけでないにしても、私たちのような傍で見ているものは、やっぱり二人を比較してみてしまう。さらに彼らの画や、性格や、挙動や、容貌まで、なんだか正反対なので、ことに比較するには面白い対象である。
彼らの優劣はもとよりつけがたいものであるが、互いに一長一短あって、いいライバルであることは疑いようもない。
- 為山氏は背が高く面長で、全体的にスラリとしているのに対して、不折君は背が低くオニのようにヒゲが生えていて、全体的に力強い。
- 為山氏は良い着物、いい駒下駄を履いて、お金が入ればすぐにそれを使ってしまうのに対して、不折君は極端な粗衣粗食でも耐えて、なるべく質素を心がけて、少しでも臨時収入があると、貯金に回す。
- 彼が「赤貧洗うがごとし」といった状態から身を起こし、自らの力で住居とアトリエを建て、それから2年足らずで海外行きを決意し、しかも誰の力も借りずに成し遂げようとするのは、やっぱり驚くべき倹約の結果である。
- 為山氏はあまり議論を好まず、普段の会話でも声が小さくボソボソと喋るのに対して、不折君は議論はもちろん、日常会話も声がデカく、ハキハキとしている。
- 為山氏は感情的であり、不折君は理論的である。
- 為山氏は不精な人だが、不折君は勉強家の中でもトップクラスだ。
- 為山氏は酒を飲み、タバコも吸うが、不折君は酒もタバコもやらない。
――こういった性質や嗜好の違いはさること、これらがことごとく絵にも表れているところが面白い。
- 為山氏の画は「巧緻精微」、不折君のは「雅樸雄健」。為山氏は計算に計算を重ねて描き始めるのに対して、不折君はいきなり筆を下ろして縦横無尽に描きまわす。
- 為山氏は一本の草、一本の木だけを描いた作品もあるけれど、不折君は小さな紙でも山水村落の大景を描く傾向にある。
- 同じものを写生するのでも、為山氏はやや実際よりも大きめに描き、不折君は小さめに描く。
- 為山氏は、描いた絵が気に入らなければすぐに破り捨ててしまう。不折君は一度書き始めたものはどうにかこうにか描きあげてしまう。
- 為山氏はノリノリで描く。不折君はキブンじゃないと絶対に描かず、始めから終わりまで手を抜かず常に気を張って描きあげる。
...といった違いは枚挙にいとまがない(といっても、彼らに似ている部分がないわけじゃない)。
私にはまだまだ書きたいことがいっぱいあるが、不折君が行ってしまうので、居ない人のに対して勝手なことを言うのもナンだから、要求や質問、注意といったコマゴマとしたものを以下に挙げることで、長々しい文章のシメとする。
- 傲慢なのは良い。ただし、弱者や後輩を軽蔑してはいけない。
- 君は耳が遠いから人の話を誤解することが多い。注意しなさい(ちょっと褒めただけなのに、めっちゃ褒められたと思い込むような、「程度の誤解」もよくあるぞ)。
- 二人の人物が話しているときに、急に横から口を出さないようにしなさい。
- あまり浮かれちゃいけない。
画のことについて私がどうのこうの言うのはナマイキだと思うけれど、ずっと言いたかったことがある。言いたかったんだが、最近の私の容態では、君に届くような大きな声が出せないので、言えなかった。だからここに書いておこう。
それは、君の趣向が余りにも大きく、ダイナミックな方向に傾きすぎて、小さく微細なもの、軽くて新しいもの、といったテーマを軽視しすぎてはいないか、という事。
近頃の君の画をみると、やや趣向が変わってきて、必ずしもパノラマ的な全景を礼賛しているわけじゃなさそうだけど、やっぱり雄大な景色やテーマを好んでいるようである。
油絵ではなかったけれど、小さなスケッチブックに大きな風景を描いて得意になっているのは、実はずいぶん前から私は気になっていた。大景が必ずしも悪いものではないが、大景(少なくとも、家屋や樹木や道路くらいが描かれている)であれば必ずしも「画になる」と思ってしまうのは、やっぱり君が大景に偏っているからであろう。
しかし私はべつに、「大景を捨てて小景を描け」と言っているんではない。ただ、君の嗜好が偏っていることに関して、よく意見の衝突があったけれども、直接言ったことが無かった事を、ここに書いてみたんである。
西洋に行って、「しっかり学ぼう」なんて意気込まなくても、見物してくれば十分だ。そのうえで、御馳走をたらふく食べて、肥えて帰ってくればそれに越した土産はない。
あまりあくせくと勉強して、上手になりすぎるなよ。
(1901/06/29)
中村不折に贈る④
それぞれ専門の学芸・技術に熱心な人は少ないくないけれど、不折君の画に対する熱心さに肩を並べるものは少ないだろう。
いつ会っても、いつまで語っても、ひとたび人と会って語り始めたら、ずーっと画談を続けて止まることがない。もしもそこに筆があったら、筆を執って実際に戯画を書き、また説明のためにいろいろな絵を描く。
時をいとわず所を選ばず、たとえ宴会の席であっても、衆人の中であっても、みんな酔っぱらって芸妓を冷やかしている最中でも、不折君はひとり絵を描き、絵を論ずる。その熱心さは実に感動ものであるが、他の人から見れば熱心過ぎてかえってウルサイようなところも多い。だけども、不折君はそれほど人からうるさがられているとは思っていない。これは彼の耳が遠いからである。
彼の勤勉さは信州人の特徴が出たものである。しかし、信州人といえど彼のように勉強するものは多くないだろう。彼は自分のためにも勉強し、人に頼まれても勉強する。
1枚2尺四方の油絵を描くために、毎日街から2,3里出た郊外に行って、1月も通い続けたことがよくある。一昨年の夏だったろうか、彼がカンバスを背負って渋川に行き、赤城山を写生した。20日余りを費やして、5尺ほどのパノラマ画が見事完成したと思って、意気揚々と帰ってすぐに浅井氏に見せに行った。浅井氏は言った。「場所が広いので、遠近がはっきりしていない。お前が本当にこの絵を完成させたいんだったら、もう1週間使って、渋川に行ってきなさい」。
彼は浅井氏の家から帰る途中、私の病床に寄ってきたが、その時の彼の顔色はただならず、声は震え、耳は遠く、非常に激昂しているように見えた。私は彼が旅の疲れと今日の激昂のために熱病にでもかからんか、と心配したほどであった。
だけども、彼は再びカンバスを抱えて、渋川へ通い、充分に描き直して、1週間ほどで帰ってきた。
私は今更ながら、彼の不屈の精神に驚かされている。この絵は「淡煙」と題して、展覧会に出された(宮内省の御用品となる)。
これらはすべて、自分のために勉強した例である。
画家はたいてい怠け者で、人の依頼でも期日を守らないものが多い。っていうか守る奴が少ない。その点不折君は、人から頼まれるとことごとく応ずるばかりか、その期日も間違えることが少なく、書店などは彼をとても重宝して、教科書の挿絵や、その他雑誌の挿絵、および表紙を依頼するものが絶えない。
思い出すのは今から7,8年前、桂舟の画が全国的にはやり、桂舟を置いてはほかに画家ナシ、なんて思われていた頃であった。博文館でも桂舟に何かの挿絵を頼んだのだが、期限内に完成せず、館主が自ら車を飛ばして桂舟を訪ねて頭を下げて、おだてすかしを再三繰り返して、丁寧に頼み込んでいたことがある。
これを考えると、期日を延ばせない雑誌の挿絵描きとして、敏腕で尚且つ規則的な不折君を手にした博文館の喜びは推して知るべし、であろう。
そのほか、彼の前でスケッチブックを開いて、何か書いてみろ、というヒトがあったら、すぐに筆を振るって即興で絵を描く。為山氏が練りに練った熟考の末に書きあげるのとは正反対である。
ただ、彼が依頼者を簡単に満足させるために、たびたび粗末で、ズサンで、陳腐で、拙劣で、無趣味な画を描くことがある。まあ、これはこれで依頼者は彼の雷名を聞いてやってきたヤツらで、画の善し悪しなんてわからん連中だから、簡単にダマされて、彼の画を手に入れたんだからホクホク顔で帰っていく。
これは、彼が人に頼まれて勉強する一例である。
(1901/06/28)
中村不折に贈る③
私が出会うより前の不折君は、不忍池のほとりに一間の部屋を借りて、そこで自炊しながら勉強していたという。その間の困窮はたとえようもなく、一粒の米、一銭の蓄えもなく、食わず飲まずで1日を過ごすことも1,2度はあったという。そのほかは推して知るべし、である。
『小日本』と関係が深くなってからは、彼は淡路町に下宿していたので、私は社からの帰りがけに彼の下宿を訪ねて、画談を聞くのが楽しみとなった。
彼は言う。「食うのに困らなくなったからこそ、十分に勉強をするべきだ」と。そこで彼は、毎日草鞋履きで弁当を持って綾瀬あたりに油絵の写生に出かけ、夜は新聞の挿絵などを描く時間としていた。彼の暮らしはこの後やっと固まって、ついに今のように繁栄したものとなった。
彼の服装の汚いのと耳の遠いのとは、彼が定職に就けずに非常に困窮していたのが原因なのだが、私たちが知り合った後でも、一般の人々は彼を嫌い、あるいは軽蔑して、私らは傍にいながら彼がなんだか気の毒になることも少なくなかった。だけども、彼の画における技量は次第に表れてきて、誰だってこれに対する賞賛を認めない者はいないほどになった。「達磨百題」、「犬百題」、などとその他何十題、五十題、というように、あるいは瓦当やそのほかの模様の意匠のように、いよいよ突出しいよいよ奇に、こんこんと湧き出でるその趣向が尽きないのを見て、シロウトもクロウトもみな舌を巻いて驚かぬ者はいない。
彼が描く犬百題などは、意匠に変化が多く、材料が豊富であることは言うまでもないが、中でも歴史上の事実をテーマにしたものが多いので、世間では私らがコッソリとテーマを提供しているんではないか、と疑う者もいる。しかしこれは誤った推測である。私は彼に一つもテーマを与えていないばかりか、逆に彼の説明によって史実を教えられることも少なくなかったのだ。
とはいえ、彼は決して博学な人ではない。読書量もあまり多くはないと思う。おそらくこの様に多方面にわたって材料を得られるのは、普段からあらゆる物事に対して注意深くアンテナを張りめぐらせているからであろう。彼のように綿密で、かつ広範囲にわたって注意をするものは、かなり少ない。
描くものは論ぜず、論ずるものは描かず。しかし、彼の様に画家でありながら論客でもある、というのは世に少ない。もしも不折君の説を聞きたいのであれば、いちど藤寺横丁の彼の画室に行ってみるがいい。質問が終わるよりも早く、不折君が滔々と弁じ始めるがみられる。で、もしも途中で邪魔が入らなかったら、彼の答弁は1時間でも2時間でも続き、しかもその回答は理路整然として乱れることがない。実例のあるものは実例(たとえば絵画)を一々指し示す。普通の画家が何を言っても漠然としてよくわからないのとは比べ物にならない。
私が彼によって教えられて、なんとなく悟ったように思えたのも、つまりは彼の教えのうまさのおかげである。
(1901/06/27)