陸羯南氏が主催で、私の枕頭にメインゲストの中村不折をはじめとして、鳴雪、(桂)
虚子が最後に残って、「船弁慶」を一番謡って帰った。
(1901/06/30)
実は、ここに登場する「滝氏」なる人物がだれなのか、ずいぶんと頭を悩ませました。結局確実なことが言えないので、本文にはカッコによる補足を入れませんでした。
最初に思い付いたのは、たぶん結核で夭逝した、という連想からでしょうか「瀧廉太郎」でした。
なんだけど、子規先生とのつながり、と考えたら、なんだか納得いきません。しかも、明治期に書かれた文章だったら、「瀧」の字を使うはずです。同じ理由で、その従兄弟にあたる建築家の「滝大吉」も却下。時代的には良いセン行ってるんだけど。
天保3(1832)年に生まれて明治34(1901)年の9月末に亡くなった、「滝
――コイツなのか?
でも、そうだったとしたら、集まったメンツの中で年齢層が高すぎないか?
子規先生が当時34歳です。その師匠的な陸羯南が44歳。これはまだいい。高浜虚子が27歳です。内藤鳴雪が54歳でダブルスコア。桂湖村が33歳、鈴木豹軒23歳、5代目浜村六蔵35歳。
こういったメンバーで、果たして69歳のレジェンドジジイがやってきて、マトモな会になるのか? 鳴雪だってなんか居心地悪そう。っていうか、以前「ある人の手紙」とやらで「若く見える」ってな意味で「還暦には今一ト昔もありさう」って書かれてたけど、実際まだ6年もあるわけだから、ソレって褒めてねえじゃん。
――話がそれてしまった。
確かに滝和亭がきたらテンション爆上がりでしょう。でも、この人は3か月後に死にます。たぶんこの時点でもう限界です。っていうか臨界です。
じゃあ誰だ? そうなってくると、和亭爺さんの息子の滝精一さんが、俄然この場にふさわしいように思えます。彼はこの当時で28歳。ちょうどいい。しかものちに帝大で美術史の教授になっちゃう人。さらに、この会合の直後くらいに美術雑誌の『国華』を主宰します。
だもんで、今回の「滝氏」は「滝精一」で間違いないと思うんですが、どーでしょう。
――本文よりも長くなってもうた。