Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

婦人服の東西

 『心の花』に大塚氏の日本服の美術的価値という論説文がある。この中に西洋の婦人服と日本の婦人服を比較して、最終的に、

 

「始終動いて居る優美の挙動やまた動くにつれて現はれて来る変化無限の姿を見せるといふ点で日本服はドウしても西洋服にまさつて居ります」

 

 と言い切っている。

 これは、「運動を見せる」ことの多いという理屈からして、日本服は西洋服よりも美しいと断定したのであろうか。万一そういう事であれば、それは不都合な理論であると思う。

 いうまでもなく我々が物の美醜を判断するのは、リクツの上ではなくて、ただ感情の上からである。いかに理屈詰めで出来上がったものでも、感情が美しいと認めなければ、それは「美」とは言えない。「運動を見せる」とかいう事を仮に衣服の「美」の基準にしたところで、そいでもって日本服がその「美」を体現しているものと理屈の上で断ぜられたとして、じゃあ感情の方で「美」と感じなかったら、ソイツが「美」じゃないのは当然である。論者ははたして、感情の上でまず「美」と感じられて、それでもってこの理論を作り上げたのだろうか。

 

 論者がもし、感情の上から日本婦人服の美を感じたのであれば、私としてはそうは思わない、という事を告白しなければならない。

 西洋と日本の婦人服を並べられて「どっちがいいか」なんて聞かれてもそれはちょっと言いかねるところではあるが、しかし「運動を見せる」とかいう理屈だけでいえば、「日本服の方が優れている」としてしまうのはなんだか納得いかない。まして、「運動を見せる」ということは、別の言い方をすれば「日本服にはビラビラした部分が多い」ってなことで、じゃあそのビラビラした部分ってのは、というと「ダラリとしてシマリがない」という欠点がある。そこへ行くと西洋服はよくシマリがついている。シマリがあるっていっても、別に「運動を見せる」部分がないというわけではない。道で細く引き締めるのに対して、裾の方は思い切って広げてある。日本服が全体的にダラリとしているのとは違う。

 

「運動を見せる」とかいうのもいいけれど、「美」な運動を見せてくれなくては困る。日本服には「美」な運動も見られるけれども、「醜」な運動ってのも見える。つまり、運動する部分(袖とか裾とか)が自由にできているだけ、運動の際に醜な形を現わす場合が多いのも必然である。

 

 純粋な美的感覚から言えばそんなものであるが、実際衣服の大半は、必要に迫られてその形が自然と定まったものだから、その点を踏まえずに日本服と瀬尾洋服とを比較するというのは、理論上とはいえ、ムリなハナシである。現に論者は「運動」というけれど、その「運動」は歩行とか舞踊とかいう事から出てきたので、それは西洋人をベースにした議論である。

 日本では中流以上の女性は舞踊歩行はもちろん、まっすぐに立っている場合さえ少ないのだから、「運動を見せる」という一点で日本服を論ずるのは、どうも考え直した方がいいようである。

 日本の女は座っていることが普通だから、衣服も座れるように作らねばならない。美の上から言えば、日本服は立っても座っても「美」といえるように作らねばならない、という難しい条件がある(西洋服は膝を追って座る必要がない)。西洋服は裾の部分に装飾が多いのに関して、日本服には袖の方に装飾が多いのは、みんな膝を折って座る、という必要に応じてできたものである。

 それだから、立った時の形を比較して、西洋服を誉め、日本服を貶めるってのは残酷だ(でも、この論者は結局日本服を誉めてるから別だ)。

 

(1901/06/08)