Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

さらばネズミよ

 東京じゅうのネズミを100万匹として、毎日1万匹捕まえるとすれば、100日で全滅することになる。

 しかし、この100日のうちに子を産んでいくとすると、実際にはいついなくなるかはわからない。とりあえず、一度始めたんだから、ネズミが尽きるまでやってみればいいだろう。

 

 頭の白いネズミも、頭の黒いネズミも、キッチリ退治すればいい。

 

(1901/06/18)

試験嫌い③

 明治24年の学年試験が始まったが、だんだん頭脳が悪くなって耐えられなくなり、ついに試験を残して6月の末に帰郷した。9月にはまた東京に戻って試験を受けなければならないので、準備をしようと思っても、書生が群がっているやかましい所では出来そうもないから、今度は地元から特別養成費を出してもらって大宮の公園に出かけた。「万松楼」宿屋に行ってここに泊まってみたが、松林の中にあって静かな涼しい所で意外といい。それにうまいものが食えるし、ちょうど萩の盛りというのだから愉快で愉快でたまらない。

 松林を徘徊したり、野道をブラついたり、くたびれるとかえって来てしきりに発句を考える。試験の準備などは手も付けないありさまだ。この愉快を独り占めするのは惜しいことだと思って、手紙で竹村黄塔を呼んだ。黄塔も来て、1,2泊して帰った。それから夏目漱石も呼んだ。漱石も来て、1,2泊して、私も一緒に帰京した。大宮にいたのが10日くらいで、試験の準備は少しもできなかったが、頭の保養にはなった非常に効果があった。

 

 しかし、この時の試験も誤魔化して済んだ。

 

 この年の暮れに、私は駒込に一軒家を借りて、一人で住んでいた。極めて閑静なところで、勉強には適している。なんだが学科の勉強じゃなくて俳句と小説の勉強になってしまった。

 それで試験があると、2日前くらいに準備にかかるので、その時は机の周りにある俳書でもなんでも、キレイに片づけてしまう。そうして机の上には試験に必要なノートだけが置いてある。そこに静かに座って見てみると、普段は乱雑に乱雑を重ねてゴチャついていた机が清潔になっているので、なんとなく心地が良い。心地が良くてウキウキすると、なんだか俳句がノコノコと浮かんでくる。ノートを開いて1枚も読まないうちに17字が1句できた。何に書こうか、と思ってもそこらには句帳も半紙も出していないから、とりあえずランプのカサに書きつけた。また1句できた。また1句。あまりの面白さに試験なんかうっちゃって、とうとうランプのカサに書きまくった。これが「燈火十二ヶ月」といって、「〇〇十二ヶ月」というのはここからハマリだしたのだ。

 

 こういうありさまで、試験だから俳句をやめて準備に取り掛かろう、と思うと、俳句がしきりに浮かんでくるので、試験があるといつでも俳句が沢山できる、という事になった。これほど俳魔に取り憑かれたらもう助かる見込みはない。

 

 明治25年の学年試験には落第した。リース先生の歴史でオチたんだろうと推測した。そりゃ落第するわな。私は少しも歴史の講義を聞きにいかない。聞きに行ってもドイツ人の英語なんて少しもわからん。オマケに私は歴史を少しも知らん。その上に試験にはノート以外のことが出たんだから、落第しないわけがない。

 これっきり、私は学校をやめてしまった。これが試験の仕納めで、落第の仕納めであった。

 

 私は今でも時々学校の夢を見る。それがいつでも試験で苦しめられる夢だ。

 

(1901/06/16)

 


 

 今度は悪友たちも巻き込んで、特別養成費で遊びまくってます。なんだかとんでもない話。っていうか、フツーに大学生じゃん。今とやってることは変わりません。時代は回ります。

 

 

新部良仁

 

 

試験嫌い②

 私が落第したのは、幾何学にオチたというよりもむしろ「英語にオチた」といった方が適当だろう。幾何学の最初の方にコンヴァース(逆)」だの「オッポジト(裏)」などという事を英語でいう事が私にはできなかったものだから、そのほかの2,3行程度のセンテンスも暗記することが難しいくらいに英語が判らなかった。

 落第したら、今度は2度目の復習になるから最初の時よりはよほどわかりやすい。コンヴァースだのオッポジトだのを英語でしゃべるくらいは造作なくできるようになったが、惜しいことにこの時の先生はもう隈本センセイではなく、日本語ずくめのフツーの先生であった。

 しかしこの落第のために幾何学の初歩が心に刻み込まれ、そのためにこの幾何学の初歩とやらを楽しめるようになり、それに続いては、数学は非常に下手でその上知識もないけれど、試験さえなければ理論を聞くのも面白いだろう、と今でも思っている。これは隈本先生のおかげなのかもしれない。

 

 今ではどうか知らないが、当時は試験の際にズルをするヤツってのは結構いっぱいいた。ズルというのは、試験の時に先生の目を盗んでメモを見たり、隣の人に聞いたり...といったことである。私も入学試験のときにはじめてその味を知ってからというもの、ズルをすることに何の抵抗も持たなかったが、入学2年目にふと気づいて、「よく考えるとズルをするってのは、人の力を借りて試験を受けるんだから、不正なうえに極めてヒレだぞ」と初めて感じた。それ以降はいかなる場合でもズルはやめた。

 

 明治22年の月にはじめて喀血した。そのあとは脳が悪くなって試験がいよいよ嫌になった。

 明治24年のはる、哲学の試験があるので、この時も非常に頭を痛めた。ブッセ先生の哲学総論であったが、私にはその哲学が少しもわからない。例えば「サブスタンスリアリティは在るか否か」といったことがいきなり書いてある。「リアリティ」がナニモノかもわからんのに、あるかどうかなんてわかるワケがない。哲学ってのはこんなに意味不明なもんだったらもうやりたくない、と思った。

 ってなわけで、めったに哲学の講義なんて聞きに行かない。けれども試験を受けないわけにはいかんから、試験の3日前になってやっとノート(ゼラチン板で刷ったやつ)と手帳1冊を携えて飄然と下宿を飛び出し、向島の木母寺へ行った。個々の境内に1件の茶屋があって、そこのカミサンはよく知っている人だから、「こーいうワケで2,3日勉強したいから百姓家かなんかを1間借りてくれないか」と頼んでみた。するとカミサンが「2,3日なたウチの2階がちょうど空いているから泊ってもいいよ」と言うんで、大喜びでその2階に籠城することに決めた。

 

 で、2階に上ってゼラチン版のノートを読み始めたが、なんだか霧がかったようで十分に理解できない。哲学もわからんがゼラチン版もはっきりと複写できていない。おまけにアタマが痛いときているからわかるワケがない。20ページも読むともうイヤになって頭がボーッとしてしまうから、すぐに1本の鉛筆と手帳とをもって散歩に出る。

 外に出ると春の終わりのうららかな陽気で八重桜も散ってしまって、野道にはレンゲソウが咲き乱れている。何か発句にならないかな、なんて思いながらあぜ道なんかをブラブラ歩いているときの愉快さと言ったらこの上ない。脳病なんかは影も形もない。

 1時間ほども散歩したらまた2階に戻る。しかし帰ってきたらくたびれているので、すぐに哲学の勉強に戻る気はサラサラ無い。手帳を広げて出来かけの発句をしきりに作り直してみたりする。この頃はまだ発句なんて少しもわからなかったのだが、そういう時の方が返って面白いものだ。ツマラン1句でも出来上がったらなんだか大層な名句のように思えてムヤミに嬉しい時代だ。あるいはくだらない短歌なんかもひねってみる。

 

 こんなありさまで3日の間にノートを1回半くらい読む。発句と歌が2,30首できる。

 

 それでもその時の試験はどうにか誤魔化して済んだ。もっともブッセ先生は落第点は付けないそうだから、試験が本当にできていたのかどうかは、もう知った話じゃない。

 

 

(1901/06/15)

 


 

 子規先生のダメダメなお話です。まあ、多くの日本人にも当てはまることですから、案外教科書で見る偉い人ってのも、こんなもんだったんでしょうね。

 ちなみに豆知識ですが、子規先生がいつも横向いているのは、実は意外と目が離れていてそれが気に入らんから、という理由らしいです。

 

 

新部良仁
 

試験嫌い①

 『日本人』に「試験」という話題があったので、おもいがけず「試験」という極めて不快な事件を思い出した。

 

 私は昔から、学校はそれほど嫌いではなかったが、「試験」というイヤーなモノがあるために、ついには「学校」という字を見るのも、もうイヤな感じがするまでになってしまった。

 

 私が大学予備門の試験を受けたのは明治17年の9月であったと思う。このとき私は、共立学校(今の開成中学)の第2級で、まだ受験をするほどの学力がなく、特に英語力が足らなかったのだが、慣れも必要だ、ってんで「試験受けようじゃんか」ってな同級生が結構いたのもあって、ダメもとでなんとなーく受けてみた。

 用意なんてのはカケラもしない。なんだけど、課目によっては案外イケるものもあった。だが、英語は別だ。こりゃ困った。

 活版刷りの問題用紙が配られたので、恐る恐るそれを取って見てみると、5問ほどある英文のなかで、私が読めるものはほとんど無い。第一、知らん単語が多いからして、考えようもコジツケようもない。

 この時私の同級生はみんな、近くの席に並んで座っていたが(これは始めッから「気脈を通じる」約束があったからだ)、私の隣の方から難しい単語の訳を教えてくれるので、それで少しは自信の持てるような気がしてイイカゲンに答えておいた。

 その問題で、判らない単語があるので困っていると、隣の男はそれを幇間ほうかんだと教えてくれた。もっとも隣のヤツも英語が苦手なので、2,3人隣のヤツから順々に伝えてきたのだ。だけど、どー考えても幇間ってのは、その文章の意味がワケワカメになるので、この訳は疑わしかったが、自分でも知らない単語だから別に仕方がないので幇間と訳しておいた。

 

 …今になって思うとそれは「法官」だったんだろう。それを伝言ゲームで「ホーカン」と言ったのが「幇間」となっちまったんで、「法官」と「幇間」を間違えたとあってはズッコケである。

 

 そのあと、合否発表の日がやってきて、さすがに予備門(一ツ橋外)まで行ってみるほどの勇気もなかったが、同級の男が「ぜひ行こう!」と言うんでいってみると、意外や意外、ナゼか合格していた。

 っていうか逆に、私たちに英語を教えてくれていたヒトが落第して、気の毒でたまらんかった。試験を受けた同級生は5,6人いたのだが、受かったのは私と菊池仙胡(謙二郎)の2人だけだった。この時は、試験って屁みてえなモンだと思った。

 

 ってなワケで、大半は人の手を借りて入学してみると、英語力がないのでめちゃくちゃ大変だった。それもそのはず、共立学校では私はミチミチと高橋(是清)センセイパーレーの『万国史を教えられていたくらいであった。

 で、明治17年の夏休みの間は本郷町の新文学舎とかいう所に英語を習いに行った。教科書はユニオン読本の第4版で、教えるのは坪内(雄蔵)センセイであった。センセイの講義は落語家の話のようで面白いので、聞くときは夢中で聞いている。そのかわり、私たちのような初心者には、英語学習の助けには全くならなかった(これは『書生気質』が出版される1年前のことだ)。

 

 とにかく、予備門に入学できたんだから勉強しちゃろうってんで、英語だけは少し勉強した。もっとも、私の言う「勉強」とは、月1回くらいのペースで徹夜してやっちゃうくらいで、毎日の予習なんてのは一切やらない。じゃあ学校から帰ったら何しとるか、ってえと、友達と談笑するか、春水しゅんすい人情本でも読んでいた。

 

 それでもたまには良心に咎められて勉強する。その方法は、英単語を一つ一つ覚えるのが一番重要なので、細切れの小さい紙に一つずつ単語を書いて、それを繰り返し見ては暗記するまでやる。だが、月1回くらいの徹夜じゃとても学校で毎日やる学習に追いつかない。

 あるとき何かの試験の時、私の隣にいた人は、答案を英文で書いていた。もちろん英語で書かなくてもいいものを、ソイツは自分で勝手に英語でスラスラと書いていたのでビックリした。この様子では私の英語力ときたらほかの学生とどんだけの差があるのかわかったもんじゃない、といよいよ心細くなった。

 ...このヒトはこの後間もなく「美妙斎」として世に名乗って出た。

 

 しかし、私が最も困ったのは、英語ではなくて数学の授業であった。このときの教員は隈本(有尚)センセイで、数学の時間は「英語しか」使わんという規則であった。スウガクの説明をエーゴでやることは、格別難しいことではない。だけど私にはそれが非常に難しい。

 つまり、数学と英語という2つの敵を一気に引き受けたからたまらない。とうとう進級試験で、幾何の点が足りずに落第した。

 

(1901/06/14)

 

 


 

 今回から始まりました、「子規先生と試験」シリーズ。なんだか恨みつらみが募っているのか、やたらと長文です。このエネルギーは、蕪村や元義を誉めるよきや、俳句界/短歌界を憂う時や、落合氏をバカにするときに匹敵します。

 っていうか、子規先生も結構やらかしております。ですが、その弟子の碧梧桐や虚子といった面々も、東京の学校に行って調子乗って、ハメ外して、子規先生から激おこのお手紙もらったりしてます。

 この師にしてこの弟子あり、ってなことでしょうか。

 

 

新部良仁

大味小味

 日本の牛は改良しなきゃならんというから、国産牛の乳は悪いのかというと、まったく悪いわけじゃない。ただ、乳の分量が少ないから不経済であるというのだ。

 また、牛肉は悪いかというとこれも、少しも悪いことはなく、むしろ神戸牛ときたら世界の牛の中でトップクラスの美味、なんだそうな。

 じゃあなんでそれを改良するのかというと、今の国産牛では、分量が少ないのに餌をやたらに食うから不経済なんだって。

 

 西洋のイチゴよりも日本のイチゴの方が甘みが多い。けれども日本のイチゴは畑で作って食卓に上るような仕組みができないから、西洋のイチゴばかりが氾濫する。サクランボでも、西洋のモノよりも日本の方が小さいが甘みは多い。だけども日本ではサクランボを作って売る、という習慣がないからこの頃では西洋種のサクランボが徐々に入ってきた。

 

 私の故郷である四国なんかでも、東京種の大根を植えるものがいる。たとえば味の面から言っても、土地固有のモノの方が甘みが多いんだが、東京大根は2倍のデカさがあるから経済的なのだろう。

 

 なんでも大きいものは大味で、小さいものは小味だ。うまみから言うと、小さいものの方がなんでもうまい。私の郷里にはホゴやメバルという4,5寸くらいの雑魚を葛で串打ちして売っている。そういうのを煮て食うと実にうまい。しかし、小骨が多くて肉が少なくて、食うのに骨が折れるようなワケだから、料理に使うことも客に出すこともできない。

 

 日本は島国だけに、何にもかも小さくできている代わりに、いわゆる「小味」という旨味がある。詩文でも小品短編が発達していて、絵画でも疎画略筆が発達している。しかし、今日のような国際社会においては、不経済な事ばかりしていては競争に負けてしまうから、牛でも馬でもイチゴでもサクランボでも、何でもかんでも輸入してきて、小さいものを大きくして、不経済なものを経済的にするのには、まあ大賛成であるが、そのために日本固有の旨味を全滅することのないようにしたいものだ。

 

 それについて思うのは、前年にやたらと議論になった人種改良問題である。もしも人種が牛の改良のように出来るんだったら、何年か後には日本人は西洋人に負けないような大きな体格になって、力も強く、病気もせず、今の人間の3倍くらい働けるような経済的な人種になるだろう。

 だけどその時、日本人に固有の「天性の旨味」ってのは残っているんだろうか。なんだか覚束ないように思える。

 

(1901/06/13)

 


 

 なんだか先進的な事を書いています。

 意外なのは、この当時から「神戸牛」ってのは世界的なブランド牛だったってこと。まあ、当時の貿易範囲にもよりますが、「西欧」としている国々が仕入れている世界中の牛肉の中でもトップレベルだった、ってことには変わりないでしょう。

 

 で、後半に書いてある、人間の「品種改良」の話。結局二次大戦後くらいから、日本人の栄養状況が良くなって平均身長とか身体能力が向上したようですが、体力的な部分のみに拘泥しないんであったら、子規先生の言う「品種改良」は、そのままゲノム研究につながってきます。

 つまり、「プチ遺伝子操作」でアタマ良い子供生まれねえかな、ってな研究です。

 天賦の才として、体力や能力に非常なものを与えられた場合、はたして、あらゆるものに存在する、不経済な部分の「旨味」、つまり「遊び」の部分にどんな感情を持つだろうか。

 効率化とかデジタル化とかAI技術への依存とか、なんとなーく通じるよーなハナシのようにも思えるのが、すごいところです。

 

 

新部良仁

ぼんやりとした日

 植木屋が2人来て、病室の前に高い棚を作る。

 

 日光を遮る役はヘチマ殿、朝顔殿に頼むつもり。

 

 碧梧桐が来て、謡曲を2番歌って帰る。清経きよつねだの、蟻通ありどおしだの。

 

(1901/06/12)