Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

試験嫌い②

 私が落第したのは、幾何学にオチたというよりもむしろ「英語にオチた」といった方が適当だろう。幾何学の最初の方にコンヴァース(逆)」だの「オッポジト(裏)」などという事を英語でいう事が私にはできなかったものだから、そのほかの2,3行程度のセンテンスも暗記することが難しいくらいに英語が判らなかった。

 落第したら、今度は2度目の復習になるから最初の時よりはよほどわかりやすい。コンヴァースだのオッポジトだのを英語でしゃべるくらいは造作なくできるようになったが、惜しいことにこの時の先生はもう隈本センセイではなく、日本語ずくめのフツーの先生であった。

 しかしこの落第のために幾何学の初歩が心に刻み込まれ、そのためにこの幾何学の初歩とやらを楽しめるようになり、それに続いては、数学は非常に下手でその上知識もないけれど、試験さえなければ理論を聞くのも面白いだろう、と今でも思っている。これは隈本先生のおかげなのかもしれない。

 

 今ではどうか知らないが、当時は試験の際にズルをするヤツってのは結構いっぱいいた。ズルというのは、試験の時に先生の目を盗んでメモを見たり、隣の人に聞いたり...といったことである。私も入学試験のときにはじめてその味を知ってからというもの、ズルをすることに何の抵抗も持たなかったが、入学2年目にふと気づいて、「よく考えるとズルをするってのは、人の力を借りて試験を受けるんだから、不正なうえに極めてヒレだぞ」と初めて感じた。それ以降はいかなる場合でもズルはやめた。

 

 明治22年の月にはじめて喀血した。そのあとは脳が悪くなって試験がいよいよ嫌になった。

 明治24年のはる、哲学の試験があるので、この時も非常に頭を痛めた。ブッセ先生の哲学総論であったが、私にはその哲学が少しもわからない。例えば「サブスタンスリアリティは在るか否か」といったことがいきなり書いてある。「リアリティ」がナニモノかもわからんのに、あるかどうかなんてわかるワケがない。哲学ってのはこんなに意味不明なもんだったらもうやりたくない、と思った。

 ってなわけで、めったに哲学の講義なんて聞きに行かない。けれども試験を受けないわけにはいかんから、試験の3日前になってやっとノート(ゼラチン板で刷ったやつ)と手帳1冊を携えて飄然と下宿を飛び出し、向島の木母寺へ行った。個々の境内に1件の茶屋があって、そこのカミサンはよく知っている人だから、「こーいうワケで2,3日勉強したいから百姓家かなんかを1間借りてくれないか」と頼んでみた。するとカミサンが「2,3日なたウチの2階がちょうど空いているから泊ってもいいよ」と言うんで、大喜びでその2階に籠城することに決めた。

 

 で、2階に上ってゼラチン版のノートを読み始めたが、なんだか霧がかったようで十分に理解できない。哲学もわからんがゼラチン版もはっきりと複写できていない。おまけにアタマが痛いときているからわかるワケがない。20ページも読むともうイヤになって頭がボーッとしてしまうから、すぐに1本の鉛筆と手帳とをもって散歩に出る。

 外に出ると春の終わりのうららかな陽気で八重桜も散ってしまって、野道にはレンゲソウが咲き乱れている。何か発句にならないかな、なんて思いながらあぜ道なんかをブラブラ歩いているときの愉快さと言ったらこの上ない。脳病なんかは影も形もない。

 1時間ほども散歩したらまた2階に戻る。しかし帰ってきたらくたびれているので、すぐに哲学の勉強に戻る気はサラサラ無い。手帳を広げて出来かけの発句をしきりに作り直してみたりする。この頃はまだ発句なんて少しもわからなかったのだが、そういう時の方が返って面白いものだ。ツマラン1句でも出来上がったらなんだか大層な名句のように思えてムヤミに嬉しい時代だ。あるいはくだらない短歌なんかもひねってみる。

 

 こんなありさまで3日の間にノートを1回半くらい読む。発句と歌が2,30首できる。

 

 それでもその時の試験はどうにか誤魔化して済んだ。もっともブッセ先生は落第点は付けないそうだから、試験が本当にできていたのかどうかは、もう知った話じゃない。

 

 

(1901/06/15)

 


 

 子規先生のダメダメなお話です。まあ、多くの日本人にも当てはまることですから、案外教科書で見る偉い人ってのも、こんなもんだったんでしょうね。

 ちなみに豆知識ですが、子規先生がいつも横向いているのは、実は意外と目が離れていてそれが気に入らんから、という理由らしいです。

 

 

新部良仁