Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

大味小味

 日本の牛は改良しなきゃならんというから、国産牛の乳は悪いのかというと、まったく悪いわけじゃない。ただ、乳の分量が少ないから不経済であるというのだ。

 また、牛肉は悪いかというとこれも、少しも悪いことはなく、むしろ神戸牛ときたら世界の牛の中でトップクラスの美味、なんだそうな。

 じゃあなんでそれを改良するのかというと、今の国産牛では、分量が少ないのに餌をやたらに食うから不経済なんだって。

 

 西洋のイチゴよりも日本のイチゴの方が甘みが多い。けれども日本のイチゴは畑で作って食卓に上るような仕組みができないから、西洋のイチゴばかりが氾濫する。サクランボでも、西洋のモノよりも日本の方が小さいが甘みは多い。だけども日本ではサクランボを作って売る、という習慣がないからこの頃では西洋種のサクランボが徐々に入ってきた。

 

 私の故郷である四国なんかでも、東京種の大根を植えるものがいる。たとえば味の面から言っても、土地固有のモノの方が甘みが多いんだが、東京大根は2倍のデカさがあるから経済的なのだろう。

 

 なんでも大きいものは大味で、小さいものは小味だ。うまみから言うと、小さいものの方がなんでもうまい。私の郷里にはホゴやメバルという4,5寸くらいの雑魚を葛で串打ちして売っている。そういうのを煮て食うと実にうまい。しかし、小骨が多くて肉が少なくて、食うのに骨が折れるようなワケだから、料理に使うことも客に出すこともできない。

 

 日本は島国だけに、何にもかも小さくできている代わりに、いわゆる「小味」という旨味がある。詩文でも小品短編が発達していて、絵画でも疎画略筆が発達している。しかし、今日のような国際社会においては、不経済な事ばかりしていては競争に負けてしまうから、牛でも馬でもイチゴでもサクランボでも、何でもかんでも輸入してきて、小さいものを大きくして、不経済なものを経済的にするのには、まあ大賛成であるが、そのために日本固有の旨味を全滅することのないようにしたいものだ。

 

 それについて思うのは、前年にやたらと議論になった人種改良問題である。もしも人種が牛の改良のように出来るんだったら、何年か後には日本人は西洋人に負けないような大きな体格になって、力も強く、病気もせず、今の人間の3倍くらい働けるような経済的な人種になるだろう。

 だけどその時、日本人に固有の「天性の旨味」ってのは残っているんだろうか。なんだか覚束ないように思える。

 

(1901/06/13)

 


 

 なんだか先進的な事を書いています。

 意外なのは、この当時から「神戸牛」ってのは世界的なブランド牛だったってこと。まあ、当時の貿易範囲にもよりますが、「西欧」としている国々が仕入れている世界中の牛肉の中でもトップレベルだった、ってことには変わりないでしょう。

 

 で、後半に書いてある、人間の「品種改良」の話。結局二次大戦後くらいから、日本人の栄養状況が良くなって平均身長とか身体能力が向上したようですが、体力的な部分のみに拘泥しないんであったら、子規先生の言う「品種改良」は、そのままゲノム研究につながってきます。

 つまり、「プチ遺伝子操作」でアタマ良い子供生まれねえかな、ってな研究です。

 天賦の才として、体力や能力に非常なものを与えられた場合、はたして、あらゆるものに存在する、不経済な部分の「旨味」、つまり「遊び」の部分にどんな感情を持つだろうか。

 効率化とかデジタル化とかAI技術への依存とか、なんとなーく通じるよーなハナシのようにも思えるのが、すごいところです。

 

 

新部良仁