Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

茶道の方式

 料理人の帰った後で聞いたのだが、『会席料理の魂は味噌汁にあるので、味噌汁の良し悪しでその料理の優劣が決まるほどである。そのため、我々が毎朝すすっている味噌汁とはワケが違う、っていうか雲泥の差であることは言うまでもない。味噌を厳選するのはもちろん、ダシに使う鰹節は土佐節の上モノの3本くらい、しかもその中でもよい部分だけである。そのため味噌汁だけでも3円(単純計算で現在の貨幣価値換算で4,500円)以上の値段になる(料理はすべて5人前であるが、味噌汁は多く作ってすべてを飲み切るわけではないので、ひと鍋の価格を見なければならない)』そうなんである。

 やっちまった。そんな味噌汁の中に、知らぬこととはいえ、ワサビをぶち込んで飲むという暴挙は、あまりにも心無い所業であると、料理人もアキレ返ったことだろう。上記の話を聞いて、いまさらながらホゾを噛む。

 

 茶の道には一定の方式というものがある。その方式の基になった精神を考えれば、みな相当の理由があることなんだけど、ただその方式にこだわるために、「伝授」とか「許し」なんてものまで出てきて、ついに茶の趣味が人々の間ではやることはなくなった。

 茶道は、できることなら自己の創意工夫によって新方式を作らなければならない。その新方式も、2度目に用いたときには陳腐なものとなってしまう(お茶だけに「二番煎じ」ってか)。そのため、茶人が茶を楽しむのは、歌人が歌を作り、俳人が俳句を作るように、常に新鮮な趣向を捻りだし、臨機応変な瞬発力を要する。

 4畳半の茶室はなんだか妙である。だけども100畳敷の広間で茶会を開くのもナシだろう。

 掛け軸と挿花を同時にしてはいけない、っていうのも、多分道理があることなんだろう。だけども、やっぱり掛け軸と挿花を同時にやらかすのも、ベツにアリなんじゃないか。

 茶室の構造や装飾から、茶器の選択に至るまで、方式にとらわれずにその時々のセンスに任せることが推奨されよう。

 

 何事に関しても「半可通」なんていう俗人がいる。茶の道においても、茶器の伝来を説いて、高いものほどイイモノだと思っている半可通が少なくない。

 茶の料理なども、料理として非常に進歩したものなのだが、進歩し過ぎて、鰹節を2本使うか3本使うかで味噌汁の優劣を競うようになっては、半可通のひとりよがりになってしまい、あまり好ましい事ではない。

 すべてのモノは、極端に走るのはいいのだが、それが結果として結びついている範囲にとどめるべきだ。

 茶道の、配合上の調和を論ずる点は俳句に似ている。茶道は物事に決まりがあって、主人も客人もその決まりを乱さないようにするところは、なんだか西洋の礼儀に似ている、とある人が言っていた。

 

(1901/03/03)