まどへりとみづから知りて神垣にのろひの釘をすてゝかへりぬ
このテの歌は、いわゆる新派の作品に多い。趣向が小説的なものをテーマにして、歌として詠みこなすことは最も難しいテクニックなのだが、ただ表面上の事実を報告するような文法で、中心も、統一性もない無趣味の31文字の羅列として、得意になってしまうのは、ぺーぺーによくあることだ。
で、この歌もそれと同じビョーキに罹っている。まず、この歌の作者の位置はどこにあるのか? 「呪いの釘」の当人であろうか。もしそうであれば、「すてゝかへりぬ」のような他人事っぽい書き方があるか。
また、傍観者が詠んだ歌だとすると、絶対に誰にも見られてはいけないハズの「呪いの釘」を見ちゃってるところがもうすでにオカシな状況である。さらに、「惑へりと自ら知りて」とその心中までズバリと見抜いているのもヘンだ。
だけど、小説家が小説を書く時のように、秘密にされた事実はもちろん、その心中を見抜いて(つまり三人称で「神の視点」に立って)歌に詠むこともないではないが、これは至難の業なんである。
この歌のように「すてゝかへりぬ」と結んでは、歴史的、つまり雑報な結末となり、美文的、つまり和歌的な結末とはならない。そのため、この歌は雑報記者が雑報を書いたようなもので、少しも感情が現れたところがない。これじゃあ、そもそも歌の資格を持たない歌と言おうか。
釘を捨てて帰る、なんてのも随分ヘンな想像だけれども、こういったことにいちいちツッコミを入れていたらうるさすぎてしまうので、省くこととしよう。
散々な妄評失礼。
(1901/04/03)
さて、1週間続いた落合氏へのツッコミコーナーも、今回で終了です。割とイチャモンみたいなのも多かったけど、一体何のウラミがあってここまでボロクソ言えるんだ?
ちなみに今回の最後の文章で「散々な妄評失礼」と訳した一文ですが、原文では「妄評々々死罪々々」となっておりました。
なんだかヤバそうな表現ですね。この「死罪々々」という言葉遣いは、昔々に使われていた表現で、「失礼いたしました」をもうちょっとライトにした言い方です。
意味としては「死罪になって当然なくらいの失礼をしました」となるんですが、カルい内容にするために表現をやたらオーバーにする、という手法は昔からあったようで、現代の口語文に直すと「ゴメンゴメン、ちょっと死んでくるわ」みたいな感じでしょうか。