Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

『明星』の落合氏の歌②

 

 いざや子ら東鑑あずまかがみにのせてある道はこのみちはるのわか草

 

 この歌は一目見ただけでヘンな歌である。まず第1句にて「子ら」と呼びかけたのであれば、全体が「子ら」に対する言葉になる。と、思いきやそれは第4句までで終わり、第5句は突然に風景をつづる句が登場する。ヘンと言わざるを得ない。 それとも、第5句も「子ら」に呼びかけた言葉と見ようか。もっとヘンである。

 また、最初に「いざや」とあるのは、子供らに注意を促している言葉なのだが、この歌では一向に子供らに注意を促しておいて、何をするとも言わない。どうしてもヘンである。

 この歌のために、何か改善策を練るのであれば、いちばんの救済方法は「いざや子ら」の1句を省くのがいいだろう。代わりに「いにしへの」とかなんとか置いた方がいい。そうすれば全体的に意味が通じるので、多少のヘンさは残っても、今よりもだいぶマシである。

 それはとにかくとして、前の歌の結句(「梅かをる朝」ってやつ)といい、今回の歌の結句といい、思い切ってヒネクリ回した表現を使うところを見ると、作者も若返りをモクロミ、いわゆる新派の若手たちと張り合おうという覚悟が見えて、とても勇ましい事である。

 次の歌は...。

 

 亀の背に歌かきつけてなき乳母のはなちし池よふか沢の池

 

 うーむ、いよいよ分かりにくい歌になってきた。この歌は詠めば読むほどわからない。どうも裏面に1編の小説的な説話でもありそうな気がする。とりあえず、この歌の趣向について湧いてきた疑問点を列挙しよう。

 

  1. この歌の作者の目線は、少年か、少女か? そして、その少年または少女はどのような身分の者か?
  2. カメの背中に歌書いたのは、一体何のためなのか? 単なるイタズラか、それとも何かのマジナイか、あるいは「紅葉題詩」という故事に倣って、カメに恋の仲介でも頼んだのか?
  3. 乳母はどのような素性の女で、どれほどの教育のある人物か?
  4. 乳母って何年前に死んだの? っていうか、病死? それとも自殺?
  5. そもそも、乳母とカメって何の関係があるの?

 ...とまあ、こういったことを確かめた後じゃないと、この歌を批評することはできない。もしもこういった複雑な事情というものを内包しておらず、ただ単に、表面だけの趣向であれば、なんだかキツネにつままれたような趣向である。

 だって、カメの背中に歌を書く、って時点でもう意味不明で、正気の沙汰とは思えないのに、しかもその歌を書いた人物が乳母、というのもますます不思議である。ふつうは無学文盲で「いろは」すらも知らないことが多い「乳母」という存在(の中でも特に歌を詠むくらいの才能がある乳母)を持ち出したのはなぜだ? でもって、その乳母がすでに死んでいる、ということに至っては、不思議に思うのもアホ臭い。

 まあ、こういった野暮なツッコミをとりあえず棚に上げておいて、ずーっと推察してみると、「池を見てなき乳母を思う少女」の懐旧の歌、といったところだろうか。で、仮にそうだったとして、結句だけに注目すると、「深沢の池」ってのは、それだけじゃ固有名詞なのか普通名詞なのか、それすらも判然とせず、気の抜けたような感じがする。

 通名詞であればオモシロくない。かといって固有名詞であれば、乳母の方にも「おたよ」とか「おふく」みたいな名前が欲しくなる。

 

 以上はこの歌を「小説的な趣向」とみて批評したのであるが、もしも「深沢の池」が実際の固有名詞であり、カメに歌を書く、という文化だか風習だか儀式だかが存在するのであれば、そいつはそいつで今度は別のツッコミがたくさんある。

 だけども、あまりに長くなりすぎるので略す。

 

(1901/03/29)