左千夫によると、俳句に「
私がこの言葉を聞いて思ったのは、これは「
連歌の発句にも、
山川のめぐり
濁りけり
など、田をかえすという事は既に書かれていた。その後
沼津にて
ぬまつくや泥
これも田をかへすと詠んでいる。なのだが元禄に入って「あら野」に以下の三句がある。
動くとも見えで
万歳をしまふて
子を独ひとりもりて
そのうちの2句は「田を打つ」とあるのに、去来だけは「畑打つ」とあり、もしかしたらこの句が原因になったのかもしれない。
このほか、元禄の句で「畑打」とあるのは、
ちら〳〵と
などである。それより後世になるほど、「田打」という句が減り「畑打」という句が多くなるようだ。
このように「田打」と「畑打」が混同されてしまった理由は、おそらく大方次のようなものだろう。
関東北国などでは、秋の収穫後、田はそのまま休ませているので、春になるとそれを打ち返すものなのだが、関西では稲を刈った後に田の水を乾かして、今度は畑として麦などを蒔く風習なので、春に打ち返す田というものはない。
麦を刈ってその後畑を打ち返して水田にすることはあっても、それは夏であって春ではない。そのため、関西では春季に「田を打つ」ということはかえって合点のいかないもので、なんとなく「畑打ち」のことと思い違いをし始めたのではないか。
しかし、昔から誤ってみていた「畑打ち」の句をみて、また我々が今まで「畑打ち」と詠んできた心を思うに、よく考えたら、もともと「畑」と「田」をあまり区別して詠んでいた訳でもなく、ただ厳寒の時期も過ぎて暖かくなっるにつれて、農家の人々が野良仕事に出て、男も女もクワを振る様子ののどかさを、「春っぽい風景」とみていたにすぎない。
何はともあれ、左千夫の実験談は参考の材料としておくべき価値がある。
(1901/04/14)