碧梧桐いわく、
山吹やいくら折つても同じ枝 子規
山吹や何がさはつて散りはじめ 同
の2句は月並調なんじゃないか、と。こういった主観的な句を月並調とするのであれば、
鶴の巣や場所もあらうに穢多の家 子規
などもむろん月並調の部に入れられるのだろう。
鶯や
は月並調じゃないのか、と。
の句は月並調に陥っているんじゃないか、と。
以上の句は他人のも自分のも、月並調ではないと私は思う。私が月並調だと思っているのは、以下のような句である。
草餅や子を世話になる人のもと 挿雲
手料理の大きなる皿や洗ひ鯉 失名
などは月並調に近いように思える。
また、古人の句でも、
七草や
七草や腕の
帰り来る夫のむせぶ
などは月並調である。
芭蕉の、
春もやゝけしきとゝのふ月と梅 芭蕪
なんかも、時代を考えると月並調と一言でもってバッサリと評してしまうのは気の毒だけれど、今日より見ればやっぱり月並的な句である。
もともと「月並調」という語は一時的に便宜上使った語であって、理屈の上で生み出されたものではなく、したがってその意義もけっこう複雑でアイマイなものである。だけども、1,2の例についていうと、前に挙げた「山吹やなにがさはって」の句を改めて、
夕桜なにがさはって散りはじめ
としてしまったら、月並調となってしまう。これは下七五の主観的形容が桜に対して適切じゃないので、ことさらにイヤミが生まれてしまう。
また、「二日灸和尚固より」の句を
二日灸和尚は灸の上手なり
としたら、月並臭さがなくなるのである。つまり言葉選びによっては月並調になったり、ならずに済んだりするのである。「二日灸」という題がもともと月並臭さを持っているのに、その上「和尚固より灸の得手」といったような俗調をノリノリで使っちゃうところが、実に俗に陥っているのである。
きわめて俗っぽい事を詠むのに、雅語を用いて俗に陥らないようにすることは、天明諸家の常套手段である。
また、「帰り来る夫のむせぶ」というのは趣向がきわどい所にイヤミがあるので、まったく趣向を変えない限りは月並調から脱することができない。「帰り来る」も「夫」も「むせぶ」もみんなイヤミを含んでいる。かなりの月並調である。
P.S.
ちょっとヘンな句を「月並調」だと思っている人もいるが、それは誤りである。月並にはかえって、ヘンな語やヘンな句法があまり見受けられない。
月並は表面的にみると、ワリとモットモらしくしていながら、底の部分にイヤミがあるものが多い。むしろ、ヘンな句は月並ではない、と思ってほしい。
(1901/04/25)
このブログの底本である、岩波文庫『墨汁一滴』(1987年1月20日発行、第19刷)の巻末にある編集付記には、この記事の使用語句に関して、以下のような但し書きが添えられています。
一、本書一〇〇頁一〇行目「鶴の巣や......」の句は、差別用語を用いているのみならず、著しい部落差別の意識を前提として成立している。明治三十年代における作者・正岡子規およびその時代の差別意識の根深さを現わすものであるとみなければならない。今日なお部落差別が解消されず存在しつづけている中で、右のごとき重い歴史的・社会的事実を直視しながら、原文をそのままの形で掲出した。
「原文をそのままの形で掲出した」こと、あるいはこの一文を添えたこと、に対する是非は、様々な立場の人たちが多くの意見を持っていることでしょうから、あえて触れません。
ただし、こうした問題に関して一番重要なのは、「差別者」と「被差別者」がいて、問題を提起し、議論することは大切な事なんだけれども、最終的な結論を出すのは、あくまで当事者でなければならない、という事。
よくわからん弁護士センセイが出しゃばってきて、正義の名のもとに、でっかい旗を掲げて、売名と集金目的で首を突っ込んでくる場所じゃあないんではないか、というのが私の意見。
サポートは重要だけど、一人で突っ走ってシュートを決めようとするのは、それはシラケたやり方だよね。
当事者が騒いでないのに、それを取り上げ、あおり、喧伝するのは、ソイツが一番差別意識を持っているからなんだと思ってしまうんですが、どーでしょう。