Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

中村不折に贈る②

 しかしそれでも私は、不折君に対して不満を持っていた。それは不折君が西洋画家であったことだ。当時の私は日本画崇拝者のひとりで、まさかに不折君が各新聞の挿絵までも排斥するほどではなかったが、油絵に関しては大反対で、「没趣味だ」と言ってきかなかった。

 なので、不折君と会うたびごとにその画談を聞きながら、時に反対弁論を試み、毎度のように何か発見することが多かった。彼の説くことが、今まで私が専攻していた俳句と比較して、一致するものが多いことに気づき、そうなってくると悟るものもいよいよ多く、半年も経つとなんだか自分でもちょっとは画を見る目が備わってきたんじゃないか、と思うようになった。

 こうなってくると、もはや日本画崇拝でもなく、西洋画排斥でもない。画はこういうもので画家はこういうものだ、と大体理解してみると、今までただ漠然と画に対して「良い」とか「悪い」とか言っていた私の判断は、8割9割間違っていたことを発見した。それに加えて今まで画家に対して無礼な待遇をしていた、と後悔するようにもなった。

 もともと別に画家を軽蔑する気持ちは少しもなかったのだが、画家の職分に対しては誤解していた。私は画家に向かってあれこれ注文を付ける権利を持っていて、画家は私の注文に応じて描く義務を持っている、なんて考えていたのは大間違いであった。これは、私が当時は絵描きといったら浮世画工しか知らなかったせいで、無理はない誤解であるが、今でも一般の人はこういった誤解をもっているものが多い。

 

 明治27年秋、上野で例の美術協会の絵画展覧会があり、不折君と観に行った。その時参考品御物の部に、雪舟の屏風が1双(琴棋書画を描いたものだったと思う)あった。素人目には実につまらないもので、雪舟崇拝」とかいう当時の美術学校派さえ、これを「凡作」と評したほどであったが、不折君はしばらくじっと見てから、ずっとこれを讃嘆してやまなかった。「これほどの大作は雪舟だからこそ成し得たもので、凡人では到底及ぶことができないものだ」と言った。

 こうして彼は私に向かって詳しくこの絵の結構布置を解説し、「これだけ画に統一性があり抜け目のない所は、さすが日本一の腕前である」と。私はこの時初めて画の「結構布置(=配置やバランスの妙)」という事について悟るところがあり、一人嬉しくてたまらなかった。

 

 明治28年春、金州に行ったときは、不折君に出会ってから1年経ったころなので、少しは「美」というものも分かるような気がしていたので、新たに得た審美眼で中国の建築器具などを見るのは、とても愉快であった。

 金州から帰ってから、その年の秋に奈良へ行き、西大寺を訪れる。この寺で私が座ったそばに二枚折の屏風があって、墨画が描かれていた。つくづく眺めていると、その趣向は極めて平凡だけれど、その「結構布置」は良く整っていて、崖樹と遠山との組み合わせの具合なんか、凡筆でない。落款がついていなかったので「誰が描いたものか」と小僧に尋ねると、狩野元信の筆によるものだと伝えられている、との答え。さすが私の眼に狂いはなかった、と一人で得意になった。

 

 私が不折君によって美術の大意を教えらた事は、私の生涯に大きな楽しみを与えてくれた。もしもこれが無かったら、数年間病床に寝たきりになっている時間が、いかにツマラナイものとなっていた事か...。

 

(1901/06/26)

 

 

 

 

中村不折に贈る①

 中村不折君は今度の29日に西洋行きの旅に出発する。

 私は横浜の波止場まで見送ってハンカチを振って別れを惜しむ...なんてことはできず、また、1人前50銭くらいの西洋料理を喰いながら送別の意を表するワケにもいかず、やむを得ず紙上に拙き言葉を並べることで、彼の門出を盛り上げる事にする。

 

 私が初めて不折君と出会ったのは、明治27年3月頃で、場所は神田淡路町小日本新聞社のビルであった。

 当初、私の新聞小日本に就いてくれるのに適当な画家がなかなか見つからず、非常に困っていた。その当時は美術学校の生徒なんかじゃ私の求めるラインに到達せず、そのほか浮世絵師を除けば良くも悪くも画工のような者が、ほとんど世間にいなかった。

 こんな時に不折君を紹介してくれたのは浅井氏である。はじめて彼を見た時のことを思い返すと、ほとんど夢のような感じがして、それ以来私の意見も趣味も、彼のアドバイスによって幾多の変遷を経て、また彼の人生もこの時から、それまでとは違った道筋を取るようになったので、この会合というのは無趣味なようで、実は重要なターニングポイントであった。

 

 さて、その時の様子である。不折氏はまず4,5枚の下絵を取り出して見せた。それは水戸弘道館などの画で、2寸くらいの小さなものだったけれど、筆力が素晴らしく強く、タダモノじゃないところがあった。でもって描いた本人を見れば、目はつぶらだが顔はオソロシゲで、服装は書生が着ているものよりもはるかにキタナイ。

 この面、この格好でこの画力というのを考えると、やっぱり尋常じゃない画家であることは即座に分かった。その絵はもらい受けて新聞に載せることにした。これが彼の画が新聞に載った最初の出来事であった。

 

 そのころ新聞に「骸骨物語」という連載があったのだが、ある時これに挿絵を入れよう。というんでその文章の概略を書いて「この分にマッチする絵を描いてくれ」と彼に頼んだら、彼はすぐにその絵を描いて送ってきた。この時の「骸骨雨宿りの図」というのは、そのバランス、その筆力、どれをとっても社中の者を驚かさずにはいなかった。

 私のこれまでの経験上、画工に対してする注文は往々にして間違った解釈がされ、たとえ間違えられたとしても、10個注意したうちの僅かに3,4個が守られていたらそれでよし、として満足しなければならない有様であった。

 だけども不折君への注文は、大まかに「だいたいこんな感じで」とだけ伝えたら、細かい部分は言わなくても、カユい所に手が届くように仕上がってきて、むしろ我々素人が考えもつかなかったところまで、いちいち巧妙な意匠を凝らしてくる。

 

 ここにきて私はようやく彼を深く信じるようになり、また、もっと早くに出会いたかった、とため息を漏らした。

 これ以降、新聞の画に苦労することはなくなった。

 

(1901/06/25)

 

最期の言葉

 板垣氏が岐阜県で刺されたときには、名言を吐いて倒れたものの無事に生き残ったので、なんだか間の悪いような感じがした。

 

 星氏の最期は一言もないので、これはこれで寂しいものがある。

 

 できれば「ブルータス、お前もか!」的な名セリフがあったら、かなり盛り上がったんだろうに。

 

(1901/06/24)

 

 


 

 ...予想外にも無責任なことを言っております。まあ、こういう事件があった時の感想って、実はたいていこんなものだったりしますよね。

 

 

新部良仁

この世から

 「刺客」ってのはなくなるものだろうか、なくならないものだろうか。

 

(1901/06/23)

 


 

 これはなんだか漠然とした1行ですが、おそらくこの2日前の1901年6月21日に、政治家の星亨が暗殺された事件を指しているのでしょう。

 ちなみに、この事件に関しては翌日の記事でも触れられてます。

 

新部良仁

歴史の授業

 学校で歴史の試験に、ある出来事の年月日を答えさせるような問題が出る。

 こんなもん、本当に必要があれば自然と覚えていくものだろう。

 学校で無理に覚えさせるなんて、なんだかバカげた話だ。

 

(1901/06/22)

イバりたい人

 ある人によると、官省にいる門番がことごとく横着な態度である、という。

 

 鳴雪翁曰く...

 横柄なヤツには勝手に驕らせておけ。彼はこういう場所でしか人に対してイバれないんだから。そう思っているから、私は帽子を脱いでお辞儀をくれてやるし、それですべてが丸く収まる、とな。

 

 うむ、さすが有道者の言う事だ。

 

(1901/06/21)

その土地の儀式

 『俳星』塚本虚明きょめいの「お水取り」という文があって、奈良の二月堂の水取のことが詳しく書いてある。私はこれを読んでうれしくてたまらない。

 京阪地方にはこのような儀式や祭りが沢山あるのだから、京阪の人は今の内になるべく詳細にその様子を書き記して見せてもらいたい。その地の人には見慣れた、面白くもないものだろうが、初めて見た者にとってはそれがどんなに面白いものかしれない。ことにこの様な事は年々廃れていくから、今うつして書いた文章は、将来その地の人間にも珍しいものとなるだろう。

 

 京都の壬生みぶ念仏や牛祭の記録は見たこともあるが、それも我々のように実地を見たことがないものにはまだわからないことが多い。葵祭あおいまつり

祇園祭ぎおんまつりなんかは陳腐だからか、かえって詳しく書いたものがいない。大阪にも十日夷とおかえびす、住吉の田植えなどというモノがある。奈良に薪能たきぎのうがいまでもあるなら、ぜひとも見て来て書いてもらいたい。

 

御忌ぎょき御影供みえいく十夜じゅうや、お取越、御命講おめいこう...といったものでも、各地方のモノをうつして、比較したら面白いだけじゃなく、有益なんじゃないかと思う。

 

(1901/06/20)