中村不折君は今度の29日に西洋行きの旅に出発する。
私は横浜の波止場まで見送ってハンカチを振って別れを惜しむ...なんてことはできず、また、1人前50銭くらいの西洋料理を喰いながら送別の意を表するワケにもいかず、やむを得ず紙上に拙き言葉を並べることで、彼の門出を盛り上げる事にする。
私が初めて不折君と出会ったのは、明治27年3月頃で、場所は神田淡路町の小日本新聞社のビルであった。
当初、私の新聞『小日本』に就いてくれるのに適当な画家がなかなか見つからず、非常に困っていた。その当時は美術学校の生徒なんかじゃ私の求めるラインに到達せず、そのほか浮世絵師を除けば良くも悪くも画工のような者が、ほとんど世間にいなかった。
こんな時に不折君を紹介してくれたのは浅井氏である。はじめて彼を見た時のことを思い返すと、ほとんど夢のような感じがして、それ以来私の意見も趣味も、彼のアドバイスによって幾多の変遷を経て、また彼の人生もこの時から、それまでとは違った道筋を取るようになったので、この会合というのは無趣味なようで、実は重要なターニングポイントであった。
さて、その時の様子である。不折氏はまず4,5枚の下絵を取り出して見せた。それは水戸弘道館などの画で、2寸くらいの小さなものだったけれど、筆力が素晴らしく強く、タダモノじゃないところがあった。でもって描いた本人を見れば、目はつぶらだが顔はオソロシゲで、服装は書生が着ているものよりもはるかにキタナイ。
この面、この格好でこの画力というのを考えると、やっぱり尋常じゃない画家であることは即座に分かった。その絵はもらい受けて新聞に載せることにした。これが彼の画が新聞に載った最初の出来事であった。
そのころ新聞に「骸骨物語」という連載があったのだが、ある時これに挿絵を入れよう。というんでその文章の概略を書いて「この分にマッチする絵を描いてくれ」と彼に頼んだら、彼はすぐにその絵を描いて送ってきた。この時の「骸骨雨宿りの図」というのは、そのバランス、その筆力、どれをとっても社中の者を驚かさずにはいなかった。
私のこれまでの経験上、画工に対してする注文は往々にして間違った解釈がされ、たとえ間違えられたとしても、10個注意したうちの僅かに3,4個が守られていたらそれでよし、として満足しなければならない有様であった。
だけども不折君への注文は、大まかに「だいたいこんな感じで」とだけ伝えたら、細かい部分は言わなくても、カユい所に手が届くように仕上がってきて、むしろ我々素人が考えもつかなかったところまで、いちいち巧妙な意匠を凝らしてくる。
ここにきて私はようやく彼を深く信じるようになり、また、もっと早くに出会いたかった、とため息を漏らした。
これ以降、新聞の画に苦労することはなくなった。
(1901/06/25)