Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

中村不折に贈る③

 私が出会うより前の不折君は、不忍池のほとりに一間の部屋を借りて、そこで自炊しながら勉強していたという。その間の困窮はたとえようもなく、一粒の米、一銭の蓄えもなく、食わず飲まずで1日を過ごすことも1,2度はあったという。そのほかは推して知るべし、である。

 

 小日本と関係が深くなってからは、彼は淡路町に下宿していたので、私は社からの帰りがけに彼の下宿を訪ねて、画談を聞くのが楽しみとなった。

 彼は言う。「食うのに困らなくなったからこそ、十分に勉強をするべきだ」と。そこで彼は、毎日草鞋履きで弁当を持って綾瀬あたりに油絵の写生に出かけ、夜は新聞の挿絵などを描く時間としていた。彼の暮らしはこの後やっと固まって、ついに今のように繁栄したものとなった。

 

 彼の服装の汚いのと耳の遠いのとは、彼が定職に就けずに非常に困窮していたのが原因なのだが、私たちが知り合った後でも、一般の人々は彼を嫌い、あるいは軽蔑して、私らは傍にいながら彼がなんだか気の毒になることも少なくなかった。だけども、彼の画における技量は次第に表れてきて、誰だってこれに対する賞賛を認めない者はいないほどになった。「達磨百題」「犬百題」、などとその他何十題、五十題、というように、あるいは瓦当やそのほかの模様の意匠のように、いよいよ突出しいよいよ奇に、こんこんと湧き出でるその趣向が尽きないのを見て、シロウトもクロウトもみな舌を巻いて驚かぬ者はいない。

 

 彼が描く犬百題などは、意匠に変化が多く、材料が豊富であることは言うまでもないが、中でも歴史上の事実をテーマにしたものが多いので、世間では私らがコッソリとテーマを提供しているんではないか、と疑う者もいる。しかしこれは誤った推測である。私は彼に一つもテーマを与えていないばかりか、逆に彼の説明によって史実を教えられることも少なくなかったのだ。

 とはいえ、彼は決して博学な人ではない。読書量もあまり多くはないと思う。おそらくこの様に多方面にわたって材料を得られるのは、普段からあらゆる物事に対して注意深くアンテナを張りめぐらせているからであろう。彼のように綿密で、かつ広範囲にわたって注意をするものは、かなり少ない。

 

 描くものは論ぜず、論ずるものは描かず。しかし、彼の様に画家でありながら論客でもある、というのは世に少ない。もしも不折君の説を聞きたいのであれば、いちど藤寺横丁の彼の画室に行ってみるがいい。質問が終わるよりも早く、不折君が滔々と弁じ始めるがみられる。で、もしも途中で邪魔が入らなかったら、彼の答弁は1時間でも2時間でも続き、しかもその回答は理路整然として乱れることがない。実例のあるものは実例(たとえば絵画)を一々指し示す。普通の画家が何を言っても漠然としてよくわからないのとは比べ物にならない。

 

 私が彼によって教えられて、なんとなく悟ったように思えたのも、つまりは彼の教えのうまさのおかげである。

 

(1901/06/27)