それぞれ専門の学芸・技術に熱心な人は少ないくないけれど、不折君の画に対する熱心さに肩を並べるものは少ないだろう。
いつ会っても、いつまで語っても、ひとたび人と会って語り始めたら、ずーっと画談を続けて止まることがない。もしもそこに筆があったら、筆を執って実際に戯画を書き、また説明のためにいろいろな絵を描く。
時をいとわず所を選ばず、たとえ宴会の席であっても、衆人の中であっても、みんな酔っぱらって芸妓を冷やかしている最中でも、不折君はひとり絵を描き、絵を論ずる。その熱心さは実に感動ものであるが、他の人から見れば熱心過ぎてかえってウルサイようなところも多い。だけども、不折君はそれほど人からうるさがられているとは思っていない。これは彼の耳が遠いからである。
彼の勤勉さは信州人の特徴が出たものである。しかし、信州人といえど彼のように勉強するものは多くないだろう。彼は自分のためにも勉強し、人に頼まれても勉強する。
1枚2尺四方の油絵を描くために、毎日街から2,3里出た郊外に行って、1月も通い続けたことがよくある。一昨年の夏だったろうか、彼がカンバスを背負って渋川に行き、赤城山を写生した。20日余りを費やして、5尺ほどのパノラマ画が見事完成したと思って、意気揚々と帰ってすぐに浅井氏に見せに行った。浅井氏は言った。「場所が広いので、遠近がはっきりしていない。お前が本当にこの絵を完成させたいんだったら、もう1週間使って、渋川に行ってきなさい」。
彼は浅井氏の家から帰る途中、私の病床に寄ってきたが、その時の彼の顔色はただならず、声は震え、耳は遠く、非常に激昂しているように見えた。私は彼が旅の疲れと今日の激昂のために熱病にでもかからんか、と心配したほどであった。
だけども、彼は再びカンバスを抱えて、渋川へ通い、充分に描き直して、1週間ほどで帰ってきた。
私は今更ながら、彼の不屈の精神に驚かされている。この絵は「淡煙」と題して、展覧会に出された(宮内省の御用品となる)。
これらはすべて、自分のために勉強した例である。
画家はたいてい怠け者で、人の依頼でも期日を守らないものが多い。っていうか守る奴が少ない。その点不折君は、人から頼まれるとことごとく応ずるばかりか、その期日も間違えることが少なく、書店などは彼をとても重宝して、教科書の挿絵や、その他雑誌の挿絵、および表紙を依頼するものが絶えない。
思い出すのは今から7,8年前、桂舟の画が全国的にはやり、桂舟を置いてはほかに画家ナシ、なんて思われていた頃であった。博文館でも桂舟に何かの挿絵を頼んだのだが、期限内に完成せず、館主が自ら車を飛ばして桂舟を訪ねて頭を下げて、おだてすかしを再三繰り返して、丁寧に頼み込んでいたことがある。
これを考えると、期日を延ばせない雑誌の挿絵描きとして、敏腕で尚且つ規則的な不折君を手にした博文館の喜びは推して知るべし、であろう。
そのほか、彼の前でスケッチブックを開いて、何か書いてみろ、というヒトがあったら、すぐに筆を振るって即興で絵を描く。為山氏が練りに練った熟考の末に書きあげるのとは正反対である。
ただ、彼が依頼者を簡単に満足させるために、たびたび粗末で、ズサンで、陳腐で、拙劣で、無趣味な画を描くことがある。まあ、これはこれで依頼者は彼の雷名を聞いてやってきたヤツらで、画の善し悪しなんてわからん連中だから、簡単にダマされて、彼の画を手に入れたんだからホクホク顔で帰っていく。
これは、彼が人に頼まれて勉強する一例である。
(1901/06/28)