Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

漢字の話はもうしない

 間違いやすい字として、ある人は「『盡』の上部は『いつ』である、『じゅん』の中は『王』である」などと説文解字を引いて論じる。

 また、不折は古碑古い法帖の文字などを提示して、「」「內」「吉」などが、必ずしも「入」や「士」であるとは限らない、と説明する。

 

 こういった専門的な攻撃に遭っては、私のように康煕字典なんかを頼りにしているシロウトには、それが正しいのかどうかの判断すらもできないので、もうヘタに口出ししないほうがよさそうだ。

 なので、誤字について書きたいこともあるにはあるけれど、なんとなくコワくなってきたので、もう知ったかぶりの学者気取りみたいな事は、一切やめます。

 

 漢字の研究は、日本文法の研究のように、時代や人によって様々で解釈の違いなんかもあるため、多少の困難は免れない。『説文』や古碑の文字によって比較考証して、正否を判断するのは非常に面白い学問だと思うが、これは専門家のお仕事で、一般ピープルが口出しすることではない。

 普通の人が楷書の基準としてみるのは、やっぱり『康煕字典』で十分だろう。ただ、私が余りに些細な事を「マチガイだ」と祭り上げたために、こんな攻撃を受けたのであれば、ごめんなさい、全部取り消します。

 

 だけど、甲の字を乙の字と取り違えるほどの大ミス(例えば「祟」「崇」と間違えるような)はどうにか直さなければいけない。

 

P.S. ある人から「舍」は人冠に「舌」ではなく、人冠に「干」と「口」であるとの指摘があり、また別の人からは「協議」の「協」を「恊」にするのはマチガイであるとの意見をもらった。

 

 

(1901/03/17)

 


 

 子規先生、結構ボコボコにやられてました。まあ、持論を展開しているときにそのジャンルの専門家がやってきたら、「ヤベっ、ホンモノっぽいのが来たからもう止めるわ」と尻尾巻くあたり、非常に潔いですね。

 

 

 

新部良仁