Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

元義の年齢

 羽生はにゅうの記すところによると、元義は岡山藩中老池田勘解由かげゆしん平尾新兵衛長治ながはるの子であり、壮年になってから沖津氏の厄介人やっかいにん、つまり家の子となり、沖津新吉直義(退去の際元義と改める)と名のり、また源猫彦と号したという。

 弘化こうか4年4月31日(これは30日の間違いだろうか)藩籍を脱して(この時36,7歳)方々に点々と移り住んで、最終的には上道じょうとう大多羅おおたら村の路傍ろぼうに倒死した。

 これは、明治5、6年のことで、65、6歳になっていたそうな。

 

 格堂かくどうの写した元義の歌を見ると、全部天保てんぽう8年より後の作品であるように、その時点ですでに彼の歌は老成しており、微塵も未熟さや行き詰まりを見せない。

 だとすれば、元義が独自の流派の本質を極め、歌の上にも悟ったときは、天保8年ごろだろうし、弘化4年を36,7歳とすれば、その頃は26,7歳となろう。

 なんだけど、弘化4年を36,7歳だったとしたら明治5,6年は62,3歳になってしまうので、なんだか計算が合わない。この辺はあまり信用できない。

 

(1901/02/24)