Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

万葉の心②

 

 天下の歌人がこぞって古今調を学ぶ。元義笑って顧みぬ。

 天下の歌人がこぞって新古今調を崇拝する。元義笑って顧みぬ。

 しかし、元義独りが万葉を宗とする。天下の歌人は笑って顧みぬ。


 このようにして、元義の名はその万葉調の歌とともに、当時は衆愚の嘲笑のうちに葬られ、今は全く世間から忘れ去られてしまった。
 忘れ去られようとするとき、平賀元義という名は昨年の夏に羽生ナニガシ(羽生永明)によって岡山の新聞紙上に現れた。しかしこの時に紹介されたのは『恋の平賀元義』というタイトルのもと、「奇矯なる歌人」「潔癖な国学者」「恋の奴隷」としての平賀元義であり、「万葉以来唯一の歌人としての平賀元義ではなかった。

 

 幸いなことに、備前児島に赤城格堂という人物がいた。元義がかつて、その地のとある家に居候していた縁もあって、元義の散逸した歌を集めて一巻として、その真筆十数枚と、例の羽生ナニガシの文も合わせて私に見せてくれた。
 ここで初めて、私は平賀元義の名を知り、その歌が万葉調なのを見て、まずは驚き、そして不思議に思った。


 思うに、私は幾多の歌集を見て、幾多の歌人について研究した結果、ホンモノの万葉崇拝者をただ一人として見出すことができずに失望し、歌人のふがいなく見識の無いことは、アキレてもう罵るにも値しないと見くびっていた。そんな時に初めて平賀元義の歌を見つけて、私は喜びよりもむしろ、不思議だと感じた。
 オマヌケ軍団ともいうべき歌人どもの中に、万葉の趣味を解するものは半数もいないはずなのに、元義は何を思って万葉に接近していったのか。ここのところがほとんど理解できない。

(1901/02/15)

 

 


 

 「万葉至上主義」のようなものでしょうか、子規はあらゆる歌人をディスってます。

 ただ、トラディショナルな花鳥風月を写実的に表現する手法を旨としたこの考えは、新手法を排除し、歌を旧弊で無進歩なものにしてしまう、という批判もあります。

 ちなみに、本文中の「赤城格堂」なる人物は、岡山出身の今でいうジャーナリストで、子規先生に俳句を教えたことのある人物です。

 

新部良仁