Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

元義エピソード

  • 元義が岡山を去ったのは、人を斬ったためとも、不満があったためともいわれている。
  • 元義は片足が不自由なため、夏でも片足には足袋を履いていた。そのため『沖津の片足袋』とあだ名されていた。
  • 元義には妻がなく、時には婦女子に対して狂態を演じることがあった。晩年は磐梨群某社の巫女の所に婿のような形で入り込み、男子二人が生まれたが、長男は窃盗で捕まり、次男もまたロクな人間ではなく、元義の原稿などはみな散り散りとなってしまい、失われた多くの行方は誰も知らないという。
  • 元義には潔癖の気がある。毎朝歯を磨くにしても、多量の塩を使い、トイレの紙もやたらと使うので、誰でも彼が寄宿することをあまり喜ばなかった。
  • 元義は髪の結い方に好みがあって、数里離れた理髪師のところまでわざわざ通ったという。
  • 元義は刀の鞘が誤って僧侶の衣服に触れたときに、コーティングの漆が剥げるまで鞘を磨いたそうな。これは潔癖だからというよりも、筋金入りの仏教嫌いといった理由からだろう。
  • 元義は藤井高尚ふじいたかなおの門下生である業合大枝なりあいおおえを訪ねて、その志を話そうとしたが、大枝はそれを拒んで逢ってはくれなかった。
  • 元義には師匠も、弟子もいないという。
  • 元義に万葉の講義を請うと、元義は「人丸ひとまろ太子たいし追悼の長歌何度も朗詠して、歌は幾度も読めば、自然とわかるものだ」といった。
  • 脱藩したものは藩の領域に住むことを許されないものだが、元義は(ナゼカ)暗黙の領域備前の田舎に住んでいたという。
  • 元義の足跡は、山陰、山陽、四国から外に出ない。京にも上ったことがないという。

 

 以上の事実の断片を集めれば、元義の性質と境遇を知ることができるだろう。

 国学者としての元義は認知されていないが、少なくとも歌について、これほどの見識を持った元義が、ただ一人の賛同も得なかったこと、その境遇の過程が不幸だったこと、彼がそのことに不平不満を漏らさなかったことを思うと、そのために、のちに婦女子に対する感情の爆発は、むしろ憐れむべき、あるいは悲しむべきことなんではないか。

 

(1901/02/25)