Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

ふたつの「露」

 ある人に向かって、短歌の趣向や材料について話したついでに言った。「松葉の露」という趣向と「桜花の露」という趣向とを同じようにみられてしまうのは口惜しい。

 私が去年の夏に「松葉の露」の歌10首をものした際、古人が見つけていない場所、あるいは見つけても歌にしなかった場所を見つけたぞ、と誇っていた。これが「花の露」ならば古歌にも多くあり、また旧派の歌人も自称新派の歌人もみんな喜んで使うような趣向にして、陳腐中の陳腐、イヤミ中のイヤミである。

 だって考えても見てほしい。「松葉の露」といったらたちどころに松葉に露の溜まる光景を眼前に思い浮かべることができるが、「花の露」だけでは花自体は目に見えるが露は見えず、ただ心の中で露を思い浮かべるだけである。

 つまり、「松葉の露」完全なる客観的光景であり、「花の露」半分だけ主観が入ってきて、その趣はともに異なるものである。なので、花の露を形容するのに松葉の露を形容するみたいな客観的な表現をしたとしても、現実的な感じが出ないことは言うまでもない。

 たとえば、「花に置く露の玉」といっても、花の露は見えてこないので、「玉」って感じは出ない。「花の白露」といっても、色の白さは実際には見えないので、やはり主観的には思えない。

 風が花を揺り動かして露の散るとき、あるいは別の要因で露の散るときははじめて露が見えるような気がするけれど、それでも「露」自体をみているのではなく、むしろ露が物の上に落ちるその「音」を聞いて露を感じ取るくらいである。「音」であれば、これもまた普通は客観的なものではないことは、言うまでもない。

 古い歌詠みに対して今更どうのこうの言うわけではない。今の歌詠みのくせにこれほど客観と主観の区別のある二つの「露」を、同じようにみられてしまったことが、かえすがえすも口惜しい。

 

(1901/04/26)