Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

『明星』の落合氏の歌

 廃刊になったと言われていた『明星』は、廃刊になったワケではなく、この度第11号は平常通りに出版された。相も変わらず、モッタイナイくらいに上等な紙を使っている。

 前々から気にしていたように、短歌の批評をやってみようと思うのだが、ナニブンその数が多いので、どーしよーかと迷っていたんだが、とりあえず「かの有名な」落合(直文)のモノから始めようか。

 

 わずらへる鶴の鳥屋みてわれ立てば小雨ふりきぬ梅かをる朝

 

「煩える鶴の鳥屋」ってのは「煩える鳥屋の鶴」とした方がいいんじゃねえか。じゃなかったら、鶴を見て、っていうよりも鳥屋の方を注視した感じになる。

 あと、病鶴びょうかく「梅」を組み合わせるのは、中国伝来の趣向であって、バランスはいいけれど、そこに「小雨」をブチ込むのはケッコウ無理やりな感じがする。むしろ小雨の代わりに「春雪」を組み合わせた方がいいだろう。

 あと、小雨にしても、「ふりきぬ」という急激な変化を表すのは、ほかの「病鶴」「梅」といった静かな景色に、調和がとれない。むしろ、最初っから雨がザンザカ降っているようである。

 次に、「梅かをる朝」という結句は、句のクライマックスとしては陳腐であり、全体の調子の上では、この句からの続きかたとしても、オモシロくない。

 

 これらのことを論ずるには、この歌の趣向全体を論じなければならない。それはつまり、この歌は、どういった場所の飼い鶴を詠んだかということ、つまり、動物園の鶴か、それとも個人所有の庭に舞い降りた鶴か、ということだ。

 もしも個人の鶴ならば、「見てわれ立てば」という句はちょっと不自然じゃないか。「見てわれ立てば」っていうくらいだから、動物園のような感じがする。

 でも、動物園の句だったとしたら、「梅かをる朝」ワケワカメである。「梅かをる朝」というのは個人の庭の静かな景色のようで、動物園のような騒がしい感じはない。

 もしも動物園とか、個人の庭とか関係なく、ただ漠然とそう言った景色を抽出して詠んだとしたら、ソイツはソイツでいいとしても、だったら「見てわれ立てば」のように作者の主観的な位置づけをなるべく避けて、ただ漠然とその景色だけを描写しなきゃならない。

 もしもこの趣向の中に、作者を登場させたいんであれば、動物園か個人の庭かをもっと明確にしなければならない。

 と、いうのが、全体の趣向の上で、結句に対する非難である。

 

 次に、この結句「小雨ふりきぬ」という切られた句の下に置いて、独立句とした所に文句を言いたい。このような曲がりくねった表現で詠むのも、場合によっては面白くなるのだが、この歌では、シロウトの隠し味みてえな臭い感じで、不快なアクセントになっている。どうしても結句を独立させたいんであれば、結びの1句でもって、上の4句に匹敵するほどのインパクトがなければならない。

 

 法師らがひげの剃り杭に馬つなぎいたくな引きそ「法師なからかむ」 (万葉十六)

 

 という歌にある、結句の力強さに注目してほしい。新古今で「ただ松の風」と詠めたのも、この句1首の魂があったからこそ、結びに置いたのである。なので、「梅かわる朝」なんてのは、あまりにもカル過ぎて、句全体の押さえにはならないように思える。

 っていうか、大体この句の全体を考えて見た方がいい。これは、「病鶴」「小雨」「梅の香」を組み合わせた趣向であるが、その景色の中で、一番目立つのは、「梅の香」ではなく「病鶴」である。なので、「病鶴」は1首の始め、さりげなく置かれた添え物であるべき「梅の香」が結句に置かれちまってるので、尻が軽くなって、落ち着きが悪くなる。せめて「病鶴」を3,4句に置いたら、もうちょっと座りが良くなったろうに。

 一番うまい料理を最初に出したら、後に出てくる物がマズく感じられてしまうように、ビーフシチューを最初に、フライやオムレツを次に、ビフテキを最後に出すものである。だけど、濃厚なビフテキでオシマイ、と打ち切っちゃうのはなんだか物足りないので、ちょっと趣向を変えたサラダや、コーヒー、フルーツといったものを出す。歌でも一緒で、理由はどうあれ、病鶴がメインだったら、必ずソイツを結句にもっていかなくてはならんワケではない。病鶴を3,4句において、「梅かをる朝」というようなサラダ的な1句を添えるのは、悪いことではないけれど、まあ、そうしたところで、この「梅かをる朝」ってなフレーズでは面白くはないね。

 この結句の意味はよくわからんけど、これじゃあ梅の木は見えないが香りだけが漂ってくるようである。だとすれば、やっぱり尋常でない趣向にして、ほかの句と調和しない。

 だって、梅の香りって、ウンコみたいにシツコイ臭いじゃなくて、遠くからほのかに匂ってくるものだから、花に神経を集中させて、嗅ごうと思わなければ嗅げるものではない。もしもスコスコと鼻の神経を鋭くして心身を集中させて、まだ見えない梅の香りを嗅ぎだしたとすれば、それ以外の要素(「病鶴」だの「小雨」だの)はそっちのけであり、互いに関係のない箇条書きになってしまう。

 また、「梅かをる朝」だけでは、複雑な鼻の所作(遠くの梅の香りをスコスコと嗅ぎだそうとするマヌケな所作)を表現しているとは言えない。もしも、梅の花が見えているのに、「かをる」と言ったのであれば、それは昔から歌人が陥っている穴から、いまだに抜け出していないんである。

 だいたい、人間の五感の中で、視覚嗅覚を比較すれば、視覚から得られる刺激や情報量の多さは言うまでもない。梅を見たときに、「色」と「香り」のどちらのインパクトが強いか、と聞かれたら、「色」が強いのがふつうである。なので、「梅白し」とだけ言えば、そこから自然と香りの連想もできるだろうが、「梅かをる」とだけ書かれても、今梅を見ているようには受け取れず、むしろ梅は見えていないのに香りだけを感じているようである。なので、古来よりこれらを混同した歌が多いのは、歌人が感情の表現に不注意である証左である。この歌の作者は果たして、どういった意味で作ったのか。

 次に最後の「朝」。この字をここに置いたところが気に食わない。そもそもこの歌に「朝」という言葉がどれほどの必要性をもって......図に乗ってやたらと書きすぎたら、筋が痛み出した。やめる。

 

 こんな些細な事を論ずる歌詠みの気が知れない、などという大文学者の先生もいるだろうが、こういった些細な部分での妙味が存在しなければ、短歌や俳句は単なる長い詩の一つに過ぎなくなる。

 

(19901/03/28)

 

 

 


 

  子規先生がやたらに噛みついております。この落合直文という人物ですが、短歌結社の「浅香社」をつくり、ここから『明星』を創刊した与謝野鉄幹を輩出しております。

 で、子規先生がトラディショナルで古雅、格式高い山水画のような歌を好んだのに対して、落合氏は、もっとライトで斬新な、エモい恋物語のような作風です。

 子規先生が短歌界において、『万葉調』を復興させたのに対して、落合氏は格式ばった感じを排除して、短歌を若い世代の人たちにもっと馴染みやすいものにしようと腐心しました。俵万智さんみたいなものですね、たぶん。

 なんていうか、演歌に対してJ-POP、というか、浪曲に対してラップミュージック、というか、志賀直哉に対して村上春樹というか...。まあ、あまり分かり合えそうな二人ではないことは確かです。

 

 で、しばらくこんな感じの落合氏批判が続きます。

 

 

 

新部良仁