Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

「希望」について

 人の希望とは、最初は漠然として大きなものであり、段々と小さく、確実なものになっていくものである。私の病床における希望は、最初から極めて小さいもので、「遠くまでは歩けなくてもいい、庭の中をちょこっと歩けたらいいな」と言っていたのは4,5年前のことだったろうか。


 その1,2年後には「歩けなくても、立てるようになったらうれしいワ」と思って、「いやいや、あまりにも希望がチイチャイのう」と一人で笑っていた。


 なのだが、一昨年の夏からは「んもう立てなくてもいいから、座るくらいはビョーキのカミサマも許してくれていいんじゃないの」とグチるほどになった。


 しかも、希望の縮小はここに来て留まることを知らず、「座れなくてもいいから、せめて1時間でもいい、苦痛がなくて安らかに横になれれば、どんなに嬉しいことか」というのがここ数日の私の希望である。


 小さい希望だ。もう私の望みもこれよりは小さくならない、限界まで達した。この次は希望がゼロになることだろう。

 


 希望がゼロになったとき、釈迦はこれを「涅槃」といい、キリストは「救い」というらしい。

1901/1/31