…さは走り車の輪には薄墨にぬらせ給ひて大さのほどやなどしるしには墨をにほはせ給へりし。げにかくこそかくべかりけれ。あまりに走る車はいつかは黒さのほどやは見え侍る。また筍の皮を男のおよびごとに入れてめかかうして
などとある。
また、源俊頼の歌の詞書にも
…大殿より歌絵とおぼしく書たる絵をこれ歌によみなして奉れと仰ありければ、屋のつまに
などとあるのを見るに、昔の人はみな、実地を写そうとして趣向や画法に様々な工夫をして、新しい画を作ってきたのだろう。
土佐派、狩野派などという流派が盛んになっていき、古い絵を学び、お
これは画だけでなく、歌にも同じことが言える。
1901/02/01
けっこうイイコト言ってます。ワタシはナニサマのつもりなんでしょう。
それはさておき、やっぱり、芸術で何かを表現しようというとき、重要視するべきは、自己の内面なんじゃないの、という疑問符を突き付けたのがこのお話。
極端な話、「立体を表現する際は、水平を0度、垂直を90度として、奥行きは45度で描くべし」という流派があったとしたら、そこのお弟子さんからは、本来の消失点で描く写実的な絵は生まれません。
もっとわかりやすく言うと、「ゾウ専門の絵描きなんだけれども、ゾウはピンク色に塗らなきゃいけない流派」の人は、どんなに頑張っても本物のゾウは描けない。
お師匠さんの教えにも、全面的に首肯するんでなくて、やっぱりオリジナリティを入れなきゃいけないし、模倣だけじゃなくて、どんな方向性にするにしても、より突出するためには、いっぱい考えなきゃね、って言っているんだと思います。