Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

元義と名歌人

 赤城格堂が収録した元義の短歌は、200首あまり、長歌は10首あまりある。このほかは不明である。

 元義の筆跡を見ると、和様ではなく、むしろ唐様である。努力して身に着けたものというよりは、ただ単に無造作に書きつけたようで、文字の大小も均一で几帳面である。別にうまくないけどイヤミっぽくはない。

 

 万葉以降で、名歌人と言えるものは4人いる。源実朝みなもとのさねとも徳川宗武とくがわむねたけ井手(橘)曙覧あけみ平賀元義ひらがもとよしである。

 

 実朝宗武は、貴人として産まれて、ともに志を伸ばすことができなかった人。

 曙覧元義は、どーってことない家に産まれて、世間に認められなかった人。

 

 宗武が将軍になれなかったのに対して、実朝が名ばかりであるが将軍となったのは、まあマシな方か。それでも安らかに逝けなかったのはちょっと、っていうかかなり残念過ぎる。

 

 元義が終始、ザンネンな境遇にいたのに対して、曙覧が松平春嶽(幕末の若き福井藩主)と晩年に知り合ったのはかなりラッキーであった。それにしても、この二人がともに「天下人」とは外れたコースをたどったことは本当に残念である。

 曙覧はあまり潔癖な方ではなかった。だけども身の回りはこぎれいな方であった。

 元義は潔癖な人だったが、なんとなくキタない人だったんじゃないか。

 

 先に挙げた4人の歌を見ると、実朝と宗武は気高くて、時に独創的なところが似ている。ただし宗武はちょっとイキった感じがする。

 曙覧が見識の進歩的の所は、元義の保守的な部分よりも優れているんではないか。ただし技量の点では、やっぱり元義のほうが勝っている。そのため、曙覧の歌は、テンポが崩れることがあるが、元義は常に安定している。

 だけども、元義の歌は趣向や材料があまりに乏しいようで、似たり寄ったりでつまらないところが、彼が大歌人になれなかった理由であろう。

 これがもし、大歌人になろうという野心を持っていたら、もっとこれ以上に発展した歌を作っていたに違いない。

 で、その歌は時として我々の常軌を逸したものだったろう、という彼の(文字通り)埋没してしまった才能を、十分に感じさせられる。それが本当に惜しい。

 

(1901/02/26)

 


 

 なんかすげーエラそーな事を言ってるんである。これは誰が見てもそう思うんではなかろうか。

 だって、源実朝ってみんな教科書で知ってるじゃん。ここに登場するほかの3人って、知らねーヒトじゃん。でも、実朝を「歌はうまいけど悲惨な死に方した人」って扱いで、知らねー3人の、さらにその内のもっと知らねー2人のことを論じてる。でもって、結局、その中でも一番知らねーヒトを惜しんでる。 

 

 まあ、それだけ子規先生が、万葉調を重要視して、それをちゃんと継承した唯一の歌人である元義を貴重な存在としているのが分ります。

 ただ、その伝統的であるがゆえに発展性に乏しい点を憂いていることは、重要です。

 何しろ、子規先生自身が、万葉調を貴ぶが故に、歌界の発展、進歩を阻害した、って批評されるくらいですから。

 

 

新部良仁