散歩の楽しみ、旅行の楽しみ、能楽演劇を見る楽しみ、寄席に行く楽しみ、見世物や興行物を見る楽しみ、展覧会を見る楽しみ、花見月見雪見などに行く楽しみ、細君を携えて湯治に行く楽しみ、
歩行の自由、起居の自由、寝返りの自由、足を延ばす自由、人を訪ねる自由、集会に臨む自由、便所に行く自由、書籍を探しに行く自由、イラついたときに腹いせに外へ出ていく自由、ヤレ火事だヤレ地震だという時にすぐに表に飛び出す自由。――すべての楽しみ、すべての自由はことごとく私の身から奪い去られて、わずかに残るひとつの楽しみとひとつの自由は、つまり飲食の楽しみと、執筆の自由である。しかも、局部の疼痛が激しくて執筆の自由はほとんど奪われて、胃腸はますます衰弱して飲食の楽しみもその大半は奪われてしまった。
キリスト教徒のナニガシが一日中私の枕元で説いていたことだが、「この世は短いです。次の世は永いです。あなたはキリストのおヨミガエリを信じることによって、幸福であります」と。
私はナニガシ氏の好意に感謝の意を表明するが、いかんせん、私が現在の苦痛があまりにも激しすぎて、いまだに永遠の幸福を目指す余裕が全くない。
願わくはカミサマ、まず私に1日の暇を与えて24時間の間だけ自由に身を動かし、タラフク飯を食わせてくれ。そうした後に改めて永遠の幸福とやらについて考えてみるから。
<訂正>
関羽が外科治療を受けている時にしていたのは、読書ではなくて囲碁だったそうです。
(1901/03/15)
これは、以前の記事「希望について」と似ている構成ですね。非常に皮肉を聞かせた感じ。っていうか、苦しんでいる病人の枕元で「信じれば救われます。幸福です」っていうのも無神経な話だナ。