Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

召波の句

 『宝船』第1巻第2号の黒柳召波しょうは句集の解説文を詠んで思ったことを一つ二つ...。

 

  紙子かみこきて嫁が手利てききをほゝゑみぬ

 

 「老情がよく表れている」という評だが、私に言わせると月並に近いように思える。

 

  反椀そりわんは家にふりたり納豆汁

 

 「古くなって木が乾くに従い、反ってくる」とあるのだが、「反椀」ってのは元々形が反った椀なので、古くなって反ったワケではなかろう。

 

  あたゝめよ瓶子へいしながらの酒の君

 

 この句には季語がない。もし「酒を温める」が季語となるならば、秋季になるであろう。あるいは、連句中につくったのぞうの句ではないか。

 

  河豚ふぐしらず四十九年のひが事よ

 

 「四十九年の非を知る」とは『論語』の言葉だったろうか。「ひが事」の「ひ」は「非」にかかっている。

 

 

  佐殿すけどの文覚もんがくふぐをすゝめけり

 

 「比喩に落ちているから善くない」と書かれているが、この句の表面には比喩はない。裏面には比喩の面影がある。

 

 

  無縁寺の夜は明けにけりかんねぶつ

 

 「寒念仏」とは無縁の聖霊を弔うために寒中に出歩く事を言うので、この句もむろん、寺の中で僧が念仏を唱えているわけではあるまい。

 

  此村に長生多き岡見かな

 

 「老人がたくさん来て、岡見をしている」のではなく、「老人の多いめでたい村を岡見している」方が正解だろう。

 

 ついでに書いておこう。碧梧桐がこの前、召波の句を読んで深く感嘆していた。私もいまだ十分な研究ができていないけれども、召波の句の趣向と言葉が相乗効果を発揮しているあたり、太祇や蕪村、几董にも勝るように思う。

 太祇蕪村一派の諸家には、計り知れぬほどの造詣の深さを持つ者がいる。

 暁台きょうたい闌更 らんこう白雄しらおらの句は児戯の域を出ない。

 

 

(1901/05/02)