Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

月並の味付け

 碧梧桐曰く、

 

手料理の大きなる皿や洗ひごい

 

の句には理屈めいた言い回しもないのに、どうして月並調なのか、と。

 

 私はこう答えた。

 「月並調」というのは理屈めいた言い回しだけを言うのではない。この句の「手料理」も「大きなる皿」も共に俗である。全体的に俗っぽくて一点の雅趣もないものもまた、月並調というのだ。もしも「洗い鯉」の代わりに「初松魚はつがつお」を置いたとしたら、これまた純粋なる月並調である。

 

 碧梧桐曰く、「手料理」や「料理屋」というのは常に我々が用いる言葉である。なぜこの語があれば月並調と呼ばれるのか。

 

 答えると、それは月並派の仲間入りをしてみたら、すぐに気づくことだ。まず、月並の題に「初松魚」が出たとしよう。このテーマを振られた熊さん八つぁんといった手合いは、たいてい「朝比奈あさひな曽我そがう日や初松魚」などという句の味など判っちゃいない。大概は「着物を質に置く」とか「手料理で一杯やる」とかいうような決まり文句を並べて出すだろう。そういう句に飽きた我々は、もはや「手料理」という語を聞いただけで月並臭さを感じるようになったのだ。

 だけども、「手料理」といっただけで直ちに月並となるわけではない。

 

 ちなみに、「手料理」という語は非常な月並臭がプンプンするけれど、「料理屋」という語には臭気がない。これは月並派の連中が「手料理」を多用するけれど、「料理屋」は使わないからだ。

 こういったことは、事実をもって知るべきで、理屈ではない。

 

(1901/05/08)