碧梧桐曰く、
手料理の大きなる皿や洗ひ
の句には理屈めいた言い回しもないのに、どうして月並調なのか、と。
私はこう答えた。
「月並調」というのは理屈めいた言い回しだけを言うのではない。この句の「手料理」も「大きなる皿」も共に俗である。全体的に俗っぽくて一点の雅趣もないものもまた、月並調というのだ。もしも「洗い鯉」の代わりに「
碧梧桐曰く、「手料理」や「料理屋」というのは常に我々が用いる言葉である。なぜこの語があれば月並調と呼ばれるのか。
答えると、それは月並派の仲間入りをしてみたら、すぐに気づくことだ。まず、月並の題に「初松魚」が出たとしよう。このテーマを振られた熊さん八つぁんといった手合いは、たいてい「
だけども、「手料理」といっただけで直ちに月並となるわけではない。
ちなみに、「手料理」という語は非常な月並臭がプンプンするけれど、「料理屋」という語には臭気がない。これは月並派の連中が「手料理」を多用するけれど、「料理屋」は使わないからだ。
こういったことは、事実をもって知るべきで、理屈ではない。
(1901/05/08)