この前の短歌会で、「一番素晴らしい歌ってのは、だれが見ても理解できるものだ」とある人が主張したところ、「歌ってのは、いいものになればなるほど、ソイツを理解できるものは少なくなるんだ」って反対するヒトも出て、なんかタイヘンな議論になった。
オロカな連中の議論だね。
ブンガクのくくりでやらかす議論ってのはどうでもいい。なんで、その本質でもって論じないんだ? 「いいもの」とか「わるいもの」ってのがあるんだったら、まずアンタらのいう「イイ歌」と「ワルい歌」ってのを挙げりゃいいじゃん。
でもって、その「イイ歌」と「ワルい歌」ってのは、多分、両者とも一致しないんじゃないか。
で、「イイ歌」「ワルい歌」の選択基準が違っているんだったら、その先のより細かい言い回しだの単語の選択だのの議論をしたところで、一体何になるんだ?
例えば、カエルが赤いものか青いものかをろんずるまえに、まずカエルとはどんな動物を指すのかを、きちんと決めておくのが、物事の順序ってやつだ。
田んぼのカエルも、森林のカエルも、どっちも「カエル」っていう部類に入るんだったら、赤いヤツも青いヤツも関係ない。
私は、判りやすいようなイイ歌ってのと、判りづらかったとしてもなんとなくイイ歌、ってのがあると思うんだけど、どーでしょ。
(1901/03/27)