Nobo-Sanのボクジュー一滴

正岡子規『墨汁一滴』の超・現代語訳ブログ。やっぱり柿うまい。

著作の目的

 自分の著作を売って、原稿料をもらうことは全く悪いことではない。しかし、その作品を書いた理由が原稿料をもらうこと以外に何もない、といったことであれば、著者の心が腐っているはも言うまでもない。

 近頃出版された秋竹しゅうちく(竹村秋竹)『明治俳句』は果たしてどういった目的で作られたのか。秋竹は、俳句界にいい影響を与えている。俳句に堪能な彼が俳句の集を選ぶのは至極当然のことで、シロウトが杜撰に選び集めたものとはワケがちがう。

 

 だけど、そもそも秋竹には、最初から俳書を編纂しようというを持っていたのだろうか?

 最近は俳句から離れている彼が、なぜ今になって急に俳句編纂を思い立ったのか?

 

 この句集がどのようにして集められたかは、問題ではない。この書物を出版するにつき、秋竹がなぜ苦々しい序文を書いたかも、問題ではない。

 

 私の邪推をここに明らかなするならば、秋竹は金儲けのためにこの編纂を思いついたに違いない。秋竹がもしも誠意をもって俳句の編纂に従事していたならば、どんな手段を使っていようとも、私はこれに賛成していただろう。だけども私は今回のことで、秋竹が腐敗したんじゃないか、という疑いを抱いた。

 そうはいっても、私は個人として秋竹だけを攻撃したいんではない。今の新しく出る著作の十中八九が金目的に書かれている中で、具体例として秋竹を挙げたまでである。

 

 

(1901/03/10)